「本のある光景 - 出久根達郎」文春文庫 漱石を売る から

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「本のある光景 - 出久根達郎」文春文庫 漱石を売る から
 
本というものは、あるべき場所にあって本の尊厳を保ちうる。本に限らない、物のすべては、元来そういうおもむきで作られているはずである。
夜ふけの弾丸道路を走っていたら、ヘッドライトが捕らえたものがある。驚いてハンドルを切ったが、とっさの目には、人が横たわっているように見えたのである。蒲団であった。だんだら模様の敷蒲団が、「己」の字に折りたたまれて、道路のまんまんなかに放置されていた。
あれは今思いだしても非現実の光景である。蒲団は、やはり寝間にのべられていてこそふさわしい。本も、そうである。思いがけぬ場所で思いがけぬ本に出会って、たじろいだ経験が、二度、ある。
一度めは二十年前、船橋のストリップ劇場であった。
ひとさし舞いおさめた踊り子が、引っこむ寸前、客席の私に目くわせをした。舞台にあがれ、と誘うのである。幕あいの、客サービスであった。私はひとりでストリップを見物するほどの好き者だから、もとより心の臓に毛だが、さらし者を志願するほどの酔狂は、さすがにない。尻ごみすると、隣の学生がやおら立ちあがった。うぬぼれもいいとこ、なんのことはない、踊り子のおめがな叶ったのはこの私ではなく、隣だったのだ。
学生は舞台にひきあげられると、右手の、バンドで止めた二冊の書物を、踊り子に召しあげられた。そして衣類をぬげ、と命じられた。学生は悪びれず言われる通りにした。あっけらかんと慣れた様子は、はた目に「さくら」のようである。ストリッパーは、へえ、むずかしい本を読んでいるじゃん、とひやかしながら、二冊の書名を読みあげた。
それは岩波書店発刊の日本古典文学大系であった。国文科の大学生の、そのころ必携のテキストである。学生が所持していた巻は、曲亭馬琴の『椿説弓張月』であった。私がギョッとしたのは、その日そのとき、私も版こそちがえ同名の書を携帯していたからである。
浅草六区の裏に、当時すでに珍しくなった古本の露店がでていて、表紙と中身の異なる読切雑誌にまじって、『為朝実伝 椿説弓張月』というのがあった。尾形月耕のさし絵入り、明治二十年代の出版物である。ひやかしに気が咎めて、それをつきあった。
私が驚いたのは、しかしその同名の偶然だけではない。十代の末と見えるような子供っぽい顔をした踊り子が、手にした書名を、誇らかにこう読みあげてみせたのだ。
「ちんぜい ゆみはりづき」
椿を「ちん」と正確に音読したのもさりながら、説を遊説の「ぜい」と読むなど、彼女、ただ者ではない。私はその時まで「ちんせつ ゆみはりづき」と疑わず読んでいたのだが、踊り子の発音を聞いて、自分は誤っていた、と赤面したのだった。
馬琴のこの長篇は、鎮西八郎為朝が主人公である。鎮西とは九州の称であるが、これに掛けて作者は「椿説」を「ちんぜい」と読ませたのである。すなわち為朝(あるいは為朝が征服した九州)の強弓男、という意味である。「ちんせつ」だなんて、私は古本屋のくせしてまちがって覚えていたのだ。
図書館で早速調べてみた。
けれども作者は私がそれまで読んでいたように振り仮名を施していた。ちんぜい、ではない。「珍説」の当て字であるが、「ちん」字をわざわざ「椿」にしたのは、八郎為朝が伊豆の大島に配流[はいる]される物語だからであろう。大島は椿の産地である。長命を椿寿と言うが、耳なれた語ではない。「ちん」と読めるひと自体めずらしいのである。
ストリッパーと馬琴のとりあわせは、そんなことがあって、私には忘れられぬ一場景となった。急いでつけ加えておくが、私はストリッパーをいやしめて、そぐわぬと喋々[ちょうちょう]しているのではない。
もう一景は、これも妙なゆきがかりで目にした。
池袋の赤ちょうちんで友人と飲んでいた。はたちになるやならずの、血気さかんなころ。「うるせえんだよ」といきなり右のふとももを押さえつけられたのである。私の右隣で独酌していた小太りの若い男。目に険があって、どこから見てもヤの字である。「また始めやがった」としばらくして再び私のふとももに手を置いた。私の貧乏ゆすりが癇[かん]にさわるというのである。貧乏ゆすりというやつ、注意しても知らず知らずにやっている。私はあやまった。さわらぬ神に、である。
ところが若い男はまた手を伸ばした。その手は今度はふとももではなく、私の、とんでもない個所である。私はゆすっていないし、抗議した。男がほくそえみつつ、こうささやいた。
「おい、しばらく放電していないな。いい本があるよ。買わないか?」
「買う」と言ったのは友人である。友人は自分の隣の客と競馬の話をかわしていたのに、急にこちらにふりむいたのである。
「行こう」とヤの字が立ちあがった。友人が応じる。私もうながされて仕方ない。小太りの若者は飲み屋で網を張っていて、恰好の鴨を物色していたらしい節がある。人のふとももをおさえるのも手の内だったのかもしれない。
男が案内したのは路地裏のしもたやである。格子戸の古い家。入口にブリキのバケツや金ダライや丼を鉢に転用して、サザンカアジサイ等さまざまの草木がところ狭しと置いてある。
男が我々を玄関に入れると、どういう合図をしたのか、目の前の階段を古びたような女が降りてきた。途中で立ちどまって、そっけなく、「どうぞ」と誘い、じき引き返した。「ひとりずつだよ」と男が友だちの背を押した。「お先に」と友人が靴をぬいで、さっさと女の後ろを追う。
男は私をその場に置き去りにして表にでていった。しばらくして鋲打ち機のような音がするので、格子戸を開けて往来をのぞくと、ヤの字がグローブをはめて、ひとりでゴムまりを向いのコンクリート塀に投げつけている。はね返ってきたボールを受けて、またほうる。黙々と、面白くもなさそうにくり返している。
階段が胡弓のようにきしって、友人が降りてきた。彼はてれくさそうに目顔で私を見た。女が上から顔だけのぞかせて、「どうぞ」と言う。
四畳半のほぼ中心に座蒲団が一枚置いてある。あと、何もない。シュミーズ一枚の女が、じだらくに足を投げだし髪をかきあげている。座蒲団は法事で坊さんがすわるような、この部屋に不釣合の、大型で厚手のやつ。女が立ちあがると、あたかもお尻に敷いていたかのように、一冊の本が現れた。私はとっさに書名に目をやった。カンノ道明の『新唐詩選評釈』。
頬をひっぱたかれたように現実にひき戻された。急いで見回した。だれかがその辺に忍んでいて、のぞいているような気がしたのである。ひとごこちついてみれば、一体なに者が読んでいたのだろう、と怪しい限りである。「だれの本?」と聞くと、古めかしい顔はそれには答えず、座蒲団に尻を落として、そのままあおむけに倒れ、「どうぞ」といざなった。女は、その言葉以外、何も言わないのである。

(巻二十六)水洟や押して事なき盲判(西島麦南)

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(巻二十六)水洟や押して事なき盲判(西島麦南)

6月28日日曜日

家事:

風呂場の排水口の掃除。上蓋、中蓋を外して湯アカを洗剤をつけて除去し、排水口にパイプ洗剤を流し込んだ。
近々設備会社の定期排水管掃除があるので改善されるだろうが、今は流れが大変悪い。ま、いいか。

洗濯機の排水口も設備会社の人が点検するので、その周りも掃除しておいた。

家を持たぬ気楽さと持たぬ不安。全部うまく行くということはない。何事も終わってみないと判らない。

何が気楽かと言えば隣近所との付き合いがないことである。管理組合は当然無いが、自治会もない。回覧板も無ければ当番もない。エレベーターに乗り合わせれば挨拶くらいはするが、そこまでである。お互い仮の棲みかだと思っているから多少のことでは文句を言わないところもよい。
家賃は要るが、戸建ての修繕のようなまとまった出費はない。
台風、地震などの災害が怖くない。災害に遭えば悲惨なことになるが、一生かかって建てた家が流されて茫然自失ということにはならない。また、処分に困るような不良資産が残る事もない。

不安も色々とある。URだから契約の延長は多分大丈夫だろうがいつまで居られるのか保障はない。インフレによる家賃の上昇が怖い。払える範囲のところに入居しているが、先のことは分からない。

俳壇:

細君が朝日俳壇を持ってきてくれた。今日は細君の丸印がついていない。私も書き留めたくなる句がない。

夏帽子田舎の銀座裏通り(菅山勇二)

に選者二人の星印がついていた。

“夏帽子場末銀座の裏通り”と盗みたくはなった。

午後、雨上がる。夕方散歩に出かける。

三千二百歩で階段二回でした。

 BBC

今週の番組を拾ってみたが、CrowdScience は血液型の話で難しい過ぎた。

 https://www.bbc.co.uk/programmes/w3cszv5t
 
What’s the point of blood types?

MoneyBoxはこれから先の景気後退、不況を見越してか、余剰人員整理への対処法相談会のようなことになっていた。

 Money Box
 
https://www.bbc.co.uk/programmes/m000k90x
 
Redundancy
If you’re facing redundancy due to the coronavirus crisis, what are your rights? If you're an employer needing to lay off staff, what are your obligations?

難しい過ぎるのと暗すぎるのとで、今週のBBCは不作でした。

世の中は暗い。この先は暗い。長生きはするもんじゃあない。
 

願い事-叶えてください。

「自虐のユーモア - 東海林さだお」文春文庫 青春の一冊 から

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「自虐のユーモア - 東海林さだお」文春文庫 青春の一冊 から

その昔、新宿の紀伊国屋書店は二階建てだった。
いまから、二十年以上前のことである。
紀伊国屋が二階建てで、ぼくが二十代で、昭和が三十年代だった。
当時の紀伊国屋は、いまのように通りに面しておらず、通りからちょっと奥まったところに建っていた。
紀伊国屋に至る露地の両側には、祭りの露店のような小店が並んでいた。
その中の一軒にブロマイド屋があって、女学生がいつも群れていた記憶がある。
そして、いまとなっては想像もできないことなのだが、新宿駅から紀伊国屋に至る一帯は、人通りが少なかった。
本を読みながら歩いていけるほど、人通りが少なかったのである。
(そんなバカな)
と、いまの人は思うにちがいない。
大学に入った年、ぼくは新宿の紀伊国屋書店で立ち読みをしていた。何気なくあれこれ立ち読みしていて、偶然太宰治という人を発見した。
それまで、日本にそういう人がいることを知らなかったのである。
いまのように、太宰治の作品が教科書にのるということはまだなかった。
まだ無頼派としての評価が高かったころだったと思う。
何気なく読んでいて、たちまちひきこまれた。
数ページ読みすすんで、なぜか急に、
(こうしてはおられぬ)
という気持ちになった。
とるものもとりあえず、という気持ちになってレジに向かい、金を払い、読みかけたところに目を落としたまま店を出、本を開いたまま、新宿駅にむかったのである。
そして列車に乗った。
そのまま旅に出た、というわけではない。
わが家は八王子にあった。
新宿を出た列車は立川、八王子に止まる。
だから、通学に列車を利用する、ということもときどきあったのである。
学校帰りの午後三時ごろの列車はガラ空きで、読書には最適であった。
列車の中で読み続け、家に帰って読み続け、たちまち一冊を読み終えてしまった。
それから紀伊国屋書店通いが始まった。
紀伊国屋で二冊目を買い、そのまま歩きながら読み、列車で読み、自宅で読む、というパターンができあがった。
歩きながら読んだのは、列車に乗るまでの時間が待ち遠しかったからである。
買ったら一刻も早く、ページを開きたかった。
こうして、筑摩書房版『太宰治全集』十一巻をたちまち読み終えてしまった。
十二巻目の書翰集さえ読んでしまった。
本の中にはさみこまれている「月報」という折り込みも、隅から隅まで読んだ。
全部読み終えると、こんどは評伝や評論にまで手を出した。
小山清奥野健男、桂英澄、壇一雄坂口安吾といった人たちが、太宰について書いた本を片っぱしから読んだ。
のちには、太宰治の奥さんが書いた本まで読んだ。
奥さんにまで、手を出してしまったのである。
太宰治の何に惹かれたのかというと、ユーモアに惹かれたのである。
太宰の書く道化や自虐から、ぼくはユーモアをくみとっていた。
太宰治の“ユーモア小説”はきわめて少ない。
『黄村先生言行録』『不審庵』『畜犬談』『禁酒の心』『花吹雪』『酒の追憶』などは、明らかにユーモアをねらって書かれたと思われる。
太宰治のユーモアは“自虐のユーモア”である。
お伽草紙』の中の「カチカチ山」などには、それが強く感じられる。
そういう目で見ていくと、他の作品にも、“ユーモアを感じさせてしまう自虐”を随所に発見することができる。
むろん最初のうちは、『斜陽』や『人間失格』などの“苦悩もの”に惹かれて入っていったのだが、すぐにこっちの“自虐のユーモアもの”に強く惹かれるようになっていった。
日本にはユーモア文学というジャンルはないに等しいといっていい。
太宰治は、ぼくが初めてであった唯一のユーモア作家だった。

(巻二十六)押し分けて行かば行かるる萩の原(正岡子規)

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(巻二十六)押し分けて行かば行かるる萩の原(正岡子規)

6月27日土曜日

雑事:

ミカンの鉢をベランダから、反対側の通路の室外機置場に移した。ベランダでは直射と照り返しで土が熱くなる。

雑事:

偵察しておいた湯屋の隣の千円の床屋さんに行く。
店に入ると御同輩が刈ってもらっていた。千円であることの念押をしてから順番待ちの席に座る。
待ちの席はソファーで、低いテーブルには灰皿とライターがセットで煙草盆の上に置いてある。ちゃんとした場末の床屋さんの構えである。(写真は往時の繁盛を偲ばせる本棚の漫画本)

御同輩の調髪はほどなく終わり、消毒後に床屋さんの椅子におさまった。ずいぶん久しぶりに味わう本当の床屋さんの椅子の感触である。
理容師さんは私よりも年長のおばさんである。
バリカンを使ってよいかと訊かれ、いいですよと答えた。バリカンで刈り上げるとこれまでは他と変わらないが、一通り刈ったあとは鋏で丁寧に揃えてくれる。ここまでで10分くらいであり、千円床屋の通常のペースだった。

そこへ買い物帰りの近所のお婆さんが入ってきた。
婆さんは客のことなど眼中になく世間話を始め、理容師さんは手を休めずに応じている。
やはり話題は“カネ”のことである。婆さんが「買い物で出かけるとついおカネをつかってしまう。今日も三千円使ってしまった。」とぼやく。
理容師さんが「だから、外に出ちゃダメなのよ。家でジィーとしてなきゃ、おカネが無くなっちゃう」と応じている。
あの十万円に婆さんはもう手をつけたようだが、理容師さんはそのことについつは何も語らずであった。
他にも色々と店の名前やその評判が交わされていたが下地のない私には何の事か分からない。分かったのは“生協のジャガイモは煮崩れが早い”というコメントくらいであった。婆さんは10分ほど喋って退出。

私の調髪もこれで終了かと思ったら、「眉毛を揃えてあげましょう」、「(剃刀で)モミアゲと襟足をきれいにしましょう」、さらに「暇だからサービスするわよ」と耳の穴の毛と鼻毛まで始末し、おまけに蒸しタオルを顔と頭に被せてマッサージまでしてくれた。
所要時間45分くらいでした。
髪は短くなり、眉毛が整った。長眉毛はめでたいとはいえ、老け込んでよろしくない。揃えてもらってよかった。

誰か来るまでと思ってサービスしてくれたのだろうが、ついにだれも現れずであった。

二丁目の富士乃湯の並びの床屋さんです。暇な方にはお薦めいたします。

眉の下剃つてもらひし薄暑かな(戸恒東人)

願い事-眠るが如くで叶えてください。


本日は二千三百歩、階段三回でした。

「遠く仰いで来た大詩人 - 川端康成」岩波文庫 荷風追想 から

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「遠く仰いで来た大詩人 - 川端康成岩波文庫 荷風追想 から

「テレビで亡骸を見たときの、あのチイズクラッカアを思い浮べますと、涙がとめどなくこみ上げてまいります。」と、関根歌さんが書いているのを今読んで、荷風氏の「亡骸」はテレビにもうつされたのかと、私はまたあの「亡骸」の写真を思い出した。夜なかにひとりで死んでいた荷風氏の写真は、一つの新聞と一つの週刊グラフとで私は見ている。四月三十日のある夕刊に、荷風氏の死の部屋の乱雑貧陋の写真をながめていると、そのなかにうつぶせの死骸もあるのにやがて気づいて、私はぎょっとした。いいようのない思いに打たれた。しかし、このようなありさまの死骸の写真まで新聞紙にかかげるのは、人間を傷つけること、ひど過ぎる。週刊グラフの写真は新聞よりも大きく明らかであった。この写真によって逆に荷風氏が世を冷笑しているとは無理にも感じ取れなかった。哀愁の極まりない写真であった。この写真の時の荷風氏はなんの抵抗も拒否も逃背もの力を持っていない。生きている人間ではなく、死骸であって、もはや人間というものではないかもしれないと思うと、私はこの写真の印象からややのがれることができた。岸首相が鳩山前首相のくやみに行った時も、鳩山氏の死顔がテレビ・ニュウスにうつった。これはすでに弔問客にたいして整えられた姿であったが、私はやはり不気味な悪感がした。 - 関根歌さんの「チイズクラッカア」と言うのは、荷風氏が死の部屋のテレビ写真に、それの散らばっているのが目についたらしいのである。
その死によって荷風氏を週刊誌が競って好餌としたのは、荷風氏の生前もっとも忌みおそれることのように書いていたにしても、今日ではむしろ当然まぬがれぬところだろうし、私も好事で読み散らしたものを、昨日茶の間から拾い出してみると、八種の週刊誌があった。私は特に買い集めたわけではないから、まだまだあるだろう。荷風氏の風変りを興味にしがちな、これら週刊誌の記事のうちにも、敬意をふくめたものがなくはない。私自身をかえりみても、昭和二十年十一月九日(「罹災日録」による)、中山義秀氏と二人で、熱海の大島五叟子氏方へ訪ねて、初めて荷風氏にお会いすることができ、同月十四日には私一人で行き、その後、市川のお宅へも二、三度うかがい、また幸田露伴氏の葬式の日に市川の氷水屋で見かけたりした、その折り折りの印象は忘れられないので、いつか書いておきたいと思っていたが、私はただ鎌倉文庫という出版社の、まあ使いとして行っただけだから、格別の話もなかったので、私など弱輩にたいする荷風氏の折り目正しい応待に感じ入ったほかには、荷風氏の着ているものだとか、栄養失調らしく顔がひどくむくんでいた病床の(荷風氏は起き出て床を二つに折り、正座して話されたが)ありさまだとかにおどろき打たれた、そんな印象に過ぎないのである。しかし、少年のころから遠く仰いで来たこの大詩人に、とにかく会ってもらえたよろこびは今も残っている。鎌倉文庫の出版や原稿の依頼などという用事がなければ、私が荷風氏を訪ねるはずもなかった。
週刊誌の多彩(?)な荷風記事のうちで最も私をとらえたのは、荷風氏が死の前日まで、日記をつけつづけたということであった。「昭和乙亥三十四年正月」からの分は「断腸亭日乗第四十三巻、荷風散人年八十一」と巻首にあるが、小学生が使う粗末なノオトだそうで、その日記の写真を見るとペンも粗末らしい。大正六年「歳卅九」の九月から、日本紙に美しい毛筆書きで続けられて来たものが、いつの年から粗末になったのか。記事も近年は簡単無味になっていたらしく、殊に最後の今年などは正月から、ただ天気模様と「正午浅草」とだけ書いた日が多く、それが二月の日々も同じで、三月一日は「正午浅草、病魔歩行殆困難」、驚いて車で帰って病臥十日ほどの後には、「正午、大黒屋食事」が「正午浅草」にかわってくりかえされる。大黒屋とは荷風氏の家に近い食堂で、胃潰瘍吐血死の前日にも、荷風氏はやはりそこでいつもと同じにカツどんを食べたという。そして、死の前の日の日記は天候を書いただけだという。日記のほかには遺稿がなかったそうで、死ぬまで日記だけは書き通した荷風氏であったが、この粗末なノオトとペンの、同一記事のくりかえし日記は、荷風氏の亡骸の写真のように、あわれの底知れぬ思いをさせられる。老残の詩人が死を待つしるしのようにも見える。

(ここまでにします。)

(巻二十六)弱引のコツを翁の鯊ならむ(秋元不死男)

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(巻二十六)弱引のコツを翁の鯊ならむ(秋元不死男)

6月26日金曜日

読書:

角川俳句七月号が昨日発刊され、今日から六月号が貸出し可能になる。

早速図書館に行き蓋を開けたら残っていた。

帰宅し、つらつらと書き留めた句は以下の通りです。

十五分待つなら歩く吹雪かな(松山蕗洲)

付いて行くだけの買物春大根(上藤修)

現世[うつしよ]に借り無きように炉を塞ぐ(出口善子)

ひんやりと人の世遠し木下闇(福神規子)

身の四囲の空気おもたし半夏生(大竹多可志)

短夜や死を意識して四十日(柴田美枝子)

大特集-横光利一の句は書き留めてございませんでしたので何か一句と思いましたがやめておきました。

本日四千歩、階段二回でした。

毎日が日曜日と言えば日曜日であり、別に曜日に影響は受けないのであるが、今日は花金で寝酒を楽しんだ。

酒の相手は嵐山光三郎が書いた谷崎の晩年であります。

谷崎の晩年と荷風の晩年、一発の荷風がいいな!

願い事-叶えてください。