2/2「庭のことば - 近藤正雄」文春文庫 01年版ベスト・エッセイ集 から

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2/2「庭のことば - 近藤正雄」文春文庫 01年版ベスト・エッセイ集 から


-根まわし

根まわしということばが政界や財界の常套語になったのはいつごろのことであろうか。あの世界で根まわしのしていない会議がひらかれたなら、それは踊るはかりか蜂の巣をつついたようなさわぎになるにちがいない。
春になると木の肌といわず枝といわず、いそいそとしてくる。暖かい陽ざしの刺激が芽から枝、枝から幹へと伝わり、根の働きが活発になるからであろう。いよいよ根まわしの季節のはじまりである。
庭づくりにさいし多くの人は樹の姿を主にしがちである。しかし、樹の将来を考えるならば樹姿をみて根をみないのはいかにも不手際と言わざるをえない。結果は二、三年をまたなくてもあらわれてしまう。根がしっかりしていない木はみるみる悪くなるからである。いきおい私どもは気を求めるとき、根の具合を第一とすることになる。
ところで庭をつくるということは、木の移植にはじまる。それにはまず当の樹木に前もって移動することの了解を得なければならない。樹木からその了解を得ておくことが根まわしである。それがあってこそ樹木は移植にたえることができる。
さて根まわしであるが、それは樹木の根の活動がはげしくなる五、六月頃が最適とされる。まず庭木として不要な枝をはらい樹姿を整える。つぎにその木立に見合った根株の規模をきめるのである。きまれば幹を中心に円型に掘り下げてゆく。その途中出合う細根はすべて切ってしまう。樹の高さの比にみあった深さまで掘り下げたなら、次に根株の真下を調べるため底の土をさらえていまう。根のあつかいは前と同じことである。
ここまで作業が進むと、根株の姿はちょうど人工衛星のカプセルのような形をして、宙に浮いた格好になる。
切らずに残された太根がアンテナのような態なのである。
また根まわしのしめくくりは、すべての太根の皮を五寸幅ほどにはいでしまうことである。それによって太根の先端から徐々にその働きを弱めさせ、かわりにその手前から沢山の細根を生えさせることができる。
皮はぎがすめば、土はもとどおり埋め戻しておく。その土が石やガラまじりであったり、質の悪いものであれば、その土はすべて入れかえてしまう。
一年後、移植の段になり、再び同じところを掘りかえしたとき、根株に細根と髭根がふえ、その密度が高くなっていれば、根まわしは成功したのである。
つまりこの樹は移植可能な状態にはいっていて、移植されることを了解したといえる。残してあった太根を切りはなし根株の土が崩れないように縄で固く鉢巻きすれば、この作業はすべて完了する。移植された樹は、一夏を無事越すことができれば、まず大丈夫である。
「根まわし」は、けっして一事を成就させるためにめぐらす謀りごとではなく、私どもにとり樹木を新しい環境にとけこませ、かつ育てあげたい一心のきわめわざにほかならないのである。
 
-陸(ろく)

時雨がきつくて仕事にならない日ほど、柄にもなくかたい書物に目を通したりすることがある。
庭づくり指南書のなかでも、すぐれた古典といわれる『作庭記』をひもといてゆくと、随所に強調されているひとつのことに気がつく。それは、庭づくりに際して、その作意を決して感じさせてはならないということである。のちの時代、禅寺に多くつくられた石庭にしたところで、その中につかわれている素材はすべて自然そのままのものである。
長きにわたる作庭の作法をもののみごとに崩したのは、茶人としてむしろよく知られる古田織部であろう。
燈籠にみる織部の造型は、かつての庭には考えられなかった感覚であったにちがいない。いつごろであったか、ある先達に案内されてはじめてこの燈籠と対面したことがある。その時のことは今もって忘れられない。その織部燈籠は太閤石ならではの味わいをもち、私の胸に迫ってきたものである。
すでに古い織部は、ほとんど手にすることはできない。人気はさらのことであろう。うつし専門の石工の話では、今様織部の注文になかなか応じられないということである。
さて、ある書物(田中正大著『日本庭園』)に「織部聞書」というものがあって、それには「ロクナル石」などとさかんに「ロク」ということばがでてくる。
これを知ったことが、織部について第二の驚きであった。なぜなら、この「ロク」ということばは、私どもが石をすえるときによくつかっているからにほかならない。その時の「ロク」とは、前後にも左右にも水平という意味に相当している。弟子入りしたてのころ「その石の天端[てんぱ]をロクにしてんか」といわれて何のことか皆目わからなかったものである。
いらい天端のそろった平坦な石をすえる時には、いつも織部の生きたはげしい時代を身近に感じてうれしくなってしまう。
まして、そのことばが、食糧難のころにいわれた「ごくつぶし」などとならぶ「ろくでなし」と深いかかわりがあると思えば、肩に喰いこむ石の重さも忘れ、愛着さえわいてくる。
 
日和見

昨年は和泉の仕事にほとんどかかりきりであったから、京・大阪間を頻繁に車で通った。その都度、かの洞ヶ峠を登り下りしたものである。
この峠を京にむかって登りつめると急に視界がひらけ、かつての順慶にかぎらず、つい足をとめて一息いれたくなってしまう。
ここからは、ちょうど煎茶点前の山字屏のような山にいだかれた京の街が一望できる。
それをなす山の左が愛宕、右が比叡である。いずれも古くから京都鎮護の山として信仰あついものがある。
私どもにとってこの山は、信仰のみにとどまらない、まして単なる借景としての山であるのでもない。
それは庭仕事には切っても切れない天気と密接な関係を持っているということである。
庭仕事にたずさわる者が、朝起きて、まず心配することは天気のほかにない。いうなれば身体がまだ床の中にある時からもうそのことを気にしているものである。
その天気であるが、長年京に住いする庭師ならば、愛宕と比叡の二つの山の様子をながめ合せたなら、ちちどころにその日の天気をあててしまう。
それは愛宕と比叡に向かって雲がどんどん流れ、つまってゆくゆうな空模様ならば、かならずや雨や雪となる。逆に今さかんに降っていても、この山の上から西南に雲が出てゆくようならは天気は快方に向かう。また雨足からみれば、愛宕にむかう雲による雨は長くきつい。それにくらべ比叡のものは短く軽いということになる。
ところがである、さしたる建造物がなかった以前はともかく、都市の様相ががらりと変ってきた今日、愛宕山比叡山をみようにもビルをはじめとする高層建築にさえぎられて、しだいにみられなくなってしまった。これは仕事柄、実に不便きわまりないことである。いつであれ軒先に出れば、日和見が十分にできたものなのである。
私どもにとって現場に出る前に、その日の空模様を確実にとらえておくことは、肝腎この上ないことである。重量物をあつかったり、高所へ登ったりすることであるから、天気によって一日の仕事の内容がぐんとかわってくる。
庭仕事にたずさわる人が空をみあげながら、軒先から出たりはいったりしているのをみかけたことがないだろうか。「日和見」も、まずは会得すべき庭づくりの技法の一つといわれるゆえんである。
 
-こけの一念

さる人の作庭集をまとめる話があって、若い写真家と庭の撮影にまわったのは、ちょうど暴れ梅雨のさなかであった。
私など素人には、パッと晴れあがった日の撮影がよいと思うのだが、それは全くちがって薄ぐもりが最高のコンディションだときかされた。その上雨あがりであったなら、いうことなしであろう。どんなにうち水しようとも、梅雨のあの間断なく、まんべんにふりかかる自然の撒水にはかなわない。それに雨と水道では、水に含まれた養分というものがかなりことなるだろう。雨あがりの庭苔の精気はことさらである。
苔といえば、杉苔や曼珠苔ばかりを思いおこすけれど、庭石や石造品にえんえんと生きている苔があって、意味は重い。庭石や燈籠をはじめとする石造品は、形ばかりでなく、千辺万化ともいえる色によって、みごたえするものである。その色の変化は、錆苔と総称される苔たちによってかもし出されている。
だから、庭に組まれた茶褐色の丹波の山石が、七、八年から十年のあいだに黒緑色にかわってしまう。それは、錆苔の生活によるのである。はじめてこの石を眼にした人は、このようにはじめから深みのある石であったろうと疑いをもたない。
錆苔は、徐々にではあるが、石の裂け目、窪みの部分から、ふえてゆく。樹木の蔭なら、行程は早くなる。この錆苔が石面をすべて覆い、石のよそおいをかえてしまうと、今度は別種の柄の大きい苔があとを追い始める。竜安寺の石庭の山石にその例をみることができる。
たとえば、十五石のうち人名が彫りこまれた石は、そのような道をへて苔むしたものであろう。長年月にわたって、苔族の洗礼をうけてきたのである。石裏にある二名の刻名のうち、小太郎は衆目の一致するところであるが、他の□二郎の第一字は、どうも定まらない。清・彦・徳など様々な読み方をされているようである。
それは長い間に、風化作用によって字の彫りが浅くなり、読みにくくしていることもあるだろうが、私がまぢかにみた限りでは、錆苔をはじめとした苔の繁茂が、判読しにくくしているように思われる。
数百年にわたるこの石の苔の生涯にくらべれば、刻名ごときをあれこれ詮索していることがばかばかしくなってしまうのは私ばかりではないだろう。
にもかかわらず、龍安寺辺に行くことはよくあるから、そのことをいつとはなしに思いだしているから、妙なものである。
この石にかぎらず、数ある古い石造品にも年代などを刻んだものがよくあり、同じようになかなか判読できないものである。
つまるところ、「こけの一念」ということを思いおこすとき、時流がそうさせるとはいえ、日頃の私たちの気短で、性急な仕事ぶりに冷汗をかかされるおもいがする。ただものいわぬ行の強さであろう。

(巻二十六)熱燗や掴みどころのなき男(松永幸男)

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(巻二十六)熱燗や掴みどころのなき男(松永幸男)

 

9月12日土曜日

 

昨夜は寝はぐってしまい払暁まで寝床で悶々と過ごした。

そこから寝込んだので定刻には起きられず。

寝はぐったのは耳鳴りがひどかったためだ。

何故耳鳴りがするのだろう?今もしている。年を取れば仕方がないのだろうが、気になってしまう。

 

耳鳴りの耳振つて聴く時雨かな(小出恋)

 

9時ころ起こされた。五時間くらいは寝たのだから、まあいいか。

散歩でもして気分転換してらっしゃいと云われて雨の落ちてきそうなさくら通りを歩いてみた。

 

散歩:

 

中途半端は困るという意識があるのだろう、さくら通りのそばにあるクリニックの診察時間などシゲシゲと見てしまった。そのクリニックは土日も午前中は診察しているようだ。

生前供養に菓子でも買って帰ろうかと思ったが、雨が降りだしたので

 

駄菓子買ふ生前供養や秋彼岸

 

と句を駄句を捻っただけで家路についた。(写真は日々の供物です。)

 

本日は三千歩で階段二回でした。

 

読書:

 

「検査は身体に悪い - 土屋賢二」文春文庫 紅茶を注文する方法 から

 

《人間は、自分がどんな人間であるかに強い興味を示すものだ。自分の容姿を鏡や体重計で仔細に点検したり、自分にどんな才能があり、どんな運命をたどるが、などを知りたがるが、それも若いうちだけだ。

年をとると、もっと重要なことがあることに気づき、鏡を見るよりもスポーツ新聞を読む方を選ぶようになる。

実際、中高年の者が自分を点検してもロクなことはない。点検の結果判明するのは、本人が思っている以上に、才能がなく、他人に嫌われ、病気が進み、この先すべてが悪化する一方だということぐらいだ。

こういう事実を発見してどこが面白いのであろうか。人間ドックに進んで入る人の気が知れない。検査しなくても悪いところがあるに決まっているのだ。

それをわざわざ検査で探すのは、一カ月放置していた牛乳がどうなっているかを確認するようなものだ。それを確認したがるだけで異常と診断してもいいくらいだ。》

 

と始まっています。

土屋先生の仰るとおりです。良くないところを指摘されるだけで縮みあがります。小心ゆえ、耳鳴りがはじまります。

 

“知らぬが仏”とも云ます。「告知」は難しい問題ですが、今はするらしい。

 

晩秋やあつさり癌と告知さる(松重幹雄)

 

願い事-叶えてください。つまり、小心ゆえ知らないうちに逝きたいということです。

 

真贋は知らぬが仏土用干(岩崎美範)

(巻二十六)鮪より分厚く降ろす初鰹(上田信隆)

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(巻二十六)鮪より分厚く降ろす初鰹(上田信隆)

9月11日金曜日 

昼頃、突然の雷鳴と雨で洗濯物を慌てて取り込んだ。

それが今日の出来事で、ほかは特になし。

散歩はコンビニから生協で絵になる物はなし。

買い物リストに鶏肉があり、指定の部位で賞味期限内(今日まで)の物で特売-20%引き-の品を買って帰った。

今晩の食材だからよかろうと思って買った。褒められると思ったら怒られた。

物差しの違ふあなたと心太(平野みち代)

本日は二千六百歩で階段二回でした。

細君は友達に電話していたが、その友人は遠雷に敏感に反応する犬を飼っているらしい。

遠雷にまず気付きたる猫の耳(濱松智弘)

犬の話が前菜で話は展開して行く。

その友人はいろいろな病気のことを体験的に詳しいらしく、細君はいろいろとその体験的知識を分けていただいていた。

短夜のいのち拾ひし物語(大堀鶴侶)

体験談を盗み聞きした範囲ではすぐということはなさそうだ。が。

体験的病状説明で思い出すのが黒沢映画の『生きる』だ。病院の待合室で主人公(志村喬)が悪魔の使いのような人物から体験を聞かされるシーンだ。

木枯らしにブランコすこし揺れて鳴り

気分はつまりゴンドラの唄(相原法則)

読書:

今日は『樟の森 - 立松和平』をコチコチしているが、なかに

大楠の枝から枝の青あらし(山頭火)

が紹介されていて、以下が立松氏の解釈です。

山頭火は実際に枝や葉が騒ぐ嵐を見たのではないと思う。枝ぶりが見事というよりも、これほどに巨大な命の賑わいに圧倒されたのではないだろうか。そんな驚きの表現として、青あらしといったのである。命が波打つさまとしては絶妙の表現である。 》

願い事-叶えてくださればありがたい。

1/2「庭のことば - 近藤正雄」文春文庫 01年版ベスト・エッセイ集 から

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1/2「庭のことば - 近藤正雄」文春文庫 01年版ベスト・エッセイ集 から

-裏切り

密告や寝返りなどと同じく日常「裏切り」ということはたいへんよろしくない行為ということになっている。けれども庭づくりにたずさわる私どもには、耳なれたことばであり、庭木の手入れにはもっとも大切なことばでさえある。
樹木の生育のいちばんはげしい夏はまた、私たちのいちばん忙しいときでもあって、この期をのがすと、すかしに適した時は、また一年めぐってこない。いきおい私どもは炎天下にも身をやすめるわけにはいかないのである。すかしをする樹木のなかでも、楠・樫・みずもち・泰山木などは、生長がはやいので太い枝をおもいきって切り落とす枝ぬきをする。葉のいっぱい繁った太い枝は、このころ水を精いっぱい吸いあげているからかなり重い。その枝を切り落とすために枝の表(上側)に鋸をいれる。すると枝は自分の重みによって、鋸がその半分ほども切りさげないうちに裂けてしまう。下手をすると、裂けは幹にまでおよぶことがある。これでは何年も丹精こめた庭木を整姿するどころか、かえっていためて醜くしてしまう。繊維のつよい樹などは、ことにその心配がある。
枝ぬきのさい、このように枝や幹が裂けることをあらかじめふせぐために、私どもはつねに「裏切り」をするのである。裏切りとは、切り落とそうとする個処の裏側にあらかじめ切りこみをいれておくことである。しかし切られる枝にとって事態は反対であろう。その切りこみさえなければ、枝はそうやすやす落ちはしない。まま、半分切られて垂れさがるようなことになっても、樹皮のすじがつながっているかぎり、その枝のいのちに望みはある。それを思えば、「裏切り」はたしかな重みをもっている。
「裏切り」によってなんともあっさり、太い枝が落ちていくさまをみていると、この言葉が人の背叛行為を意味するようになったことがいかにもよくわかるのである。
 
-捨石

ふつうすてられたものや犠牲にされたものを「捨石」といっている。それは庭づくりにもよくつかわれることばである。だがその意味あいははなはだ異なり、もっと深く、輝きのある内容をもっている。
木蔭にはいれば、どこからともなく風がわたって汗をすっとひいてくれる秋口になると、本格的な庭づくりがはじまる。樹木のほとんどが、真夏や冬の移植には適さないからである。庭の地がしあがると樹木と石は、その大きさと入れるところにより、順に配してゆくが、なかでも石のくばりには気をつかう。
庭につかう石にもいろいろあって、大きく二つにわけられる。ひとつは「役石」であり、ほかは「捨石」である。役石とは、なにかの役目あるいは意味をもたされている石のことである。よく知られているものに蹲踞[つくばい]をかたどる三つの石や飛石がある。また三尊石、陰陽石などをあげることができる。役石のうちでも蹲踞の石や飛石は、茶庭のなかでさかんにつかわれている。しかしほかの役石は、庭が宗教的な色あいをなくしてかたため、社寺のもの以外多くはみらるない。それはあまりに技巧的な石組みがこのまれまれなくなってきていることともあいまっている。庭はあくまで自然の一部であり、樹・石・草・苔などが共生できる空間でなくてはならない。石によって、それがやぶられてしまっては、庭は人をつつみこむやすらぎをかもしださない。
そんなとき、役目なく、ひとつの約束ごとにしばられることもない石が、樹木や下草のかげからもの静かに顔をのぞかせていると、それはいいようもなく光彩をはなってくる。これが、「捨石」である。
さて、庭師仲間もよくつかう京のことばに「ほかす」というのがある。やはりすてるという意味につかわれている。けれども、そのひびきはいかにもやわらかく、すてかたがちがうかのような感じさえうける。いわば「捨石」とはいかにもほかしてあるかのように、何気なくすえられている石ということであって、不要なもの、余計なものを投げ捨てておくことを意味しはしない。
いまや「捨石」は、庭の主役にうかびあがっている。それというのも、かつては信仰にからみ奇石や珍石を自慢にしたものであるが、現代ではむしろ庭全体の造型や装飾として石をとらえみるようになっているからである。つまり配石の焦点は「捨石」にあつまってきている。だから庭づくりにさいし、庭師のだれしもがいちばんに吟味し、苦心してすえるのは「捨石」にほかならない。どこにめ転がっているような石にも、かならず味があるものである。その味をみつけてひきだし、いかに芸をさせることができるかは、庭師の腕にかかっている。
その腕ひとつをたよりに力仕事にあけくれ、一服のあとすえたばかりの石のたたずまいをみていると、庭職人は「捨石」にほかならなかったように思えるのである。眼のあさい人にはとどくすべもないが、庭あるところかならずわれら仕事仲間のさえた技が光をはなっているものなのである。
 
-垣間見る

木枯らしであれ、とっさの風に道ゆくひとの裳裾[もすそ]がさっとひるがえるとき、おもわず今まで気づかなかったその美しさをつよく感じることがある。
それはあたかも腕のいい職人がつくった庭をめぐるときと同じようである。それほどの作庭ができる庭師には、一本の絹糸のような美感覚がぴんと張られているように思われる。その糸をたぐってゆくと、根底となる感覚にめぐりあえるゆうである。その感覚とは、物があるがままあらわにみえてはならないということであり、逆にほとんどみえないようであってもまたいけないということである。いいかえるなら、そこにある物の、背後ないしはその奥に、ちらっとあるかなしかの気配を感じとらせることが大切なこととされるのである。
それは、日本建築における格子や障子、御簾[みす]の意匠にもはっきりあらわれている。たとえば格子戸をあけしめする際、光と影がからからと交叉して流れるように動いてゆくのは、いかにも趣きがある。また朝日がのぼり、障子に樹の小枝がうつって、ましてその中を小鳥のとびかう姿をみつけたりしたときなど、戸外でみたとき以上に印象深いものである。
そのような感覚が、とくに作庭や庭木の手入れの技術の伏本流として存在しているように思われる。なかでも垣は、その典型であろう。古くから透垣[すいがき]という垣がしられており、光悦垣やたいまつ垣のように、すすんで意匠化されたものはいうまでもない。さらに天然の材質をそのままいかした柴垣、竹穂垣はいかに厚くかさねようと、陽はもれてくるし、人や物の気配はすぐ感じさせてくれる。このように垣をはじめとして、さきのような感覚は庭の随所にとりこまれているものなのである。
ともかく、私は長年この道ひと筋に生きてきた庭職人の話をできるだけ聞くことにしている。先達であるというばかりではない。その人たちこそ、もはや接することのできない古人たちの美感覚がふんだんに育まれ生きながらえていると思われるからである。彼等の話を聞いていると、いつかしら遠い日本人の美感覚を「垣間見る」思いがするのである。

「花子のいる風景 - 平岩弓枝」ベスト・エッセイ2011 から

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「花子のいる風景 - 平岩弓枝」ベスト・エッセイ2011 から

子供の頃から我が家には必ず犬か猫が居た。
素性の正しい生まれの仔[こ]もいたが、大方は出所不明であった。要するに捨て犬、捨て猫である。
今はそんなこともなくなったが、私の子供の頃は神社の前に生まれたばかりの仔犬や仔猫を夜陰に乗じておき去りにする不心得者が絶えなかった。
早朝、拝殿の扉を開けて、ちっこいのが何匹も折り重なるようにして今にも死にそうな声で啼いているのを書生がみつけ、大さわぎになる。私の家族はどちらかといえば動物好きであったらしく、まず、母がミルクを作って一匹づつ飲ませる。なかには自力で飲めないのもいて、人間の赤ん坊用のミルク瓶をつかってというのも珍しくなかった。
或る程度、成長すると仔犬、仔猫時代は愛らしいので、参拝に来る人が一匹づつ貰って行って下さって売れ残ったのが我が家で飼われる。結果、不器量か、体が弱いが、どこかに欠陥のあるようなのが我が家のペットであった。器量が悪かろうが、年中お腹をこわそうが、飼っていれば情が湧いて、病気らしいと見えると直ちに近所の犬猫病院へつれて行くのが私の役目であった。治療を受けて元気になるのも、その甲斐なく一生を終えてしまうのもいて、子供ながら諸行無常を感じていたりもした。
七十何年が過ぎた今、流石に犬は散歩につれて行くのが無理になって、目下、猫一匹が我が家にいる。
名前は花子。但し、これは彼女の本名ではなくて、彼女が我が家へ来た時、シェパード犬の太郎がいたので、ならば花子かと安直に命名したもので、なにしろ、猫は人語を喋らないので、お名前はなんというのかと聞いたところで答えられない故である。
どうやら、花子は置いて行かれてしまった猫のようである。
彼女の生まれ育った家は我が家からそれほど遠くはない所で、私の想像が当っていれば戦前からの立派なお屋敷であった。別におつき合いがあったわけではないので、確かなことは解らないが、御当主が歿[なくな]られて御遺族が転居されて建物はとりこわされ、やがてマンションになった。そちらを花子の生家と推量した理由は住む人のいなくなった家のあたりでうろうろしていた花子を目撃されていた方の話の故である。花子は暫くの間、みるみる変貌して行く家の有様を土手の上からじっとみつめていたという。おそらく花子の飼主の方は伴って行かれるなんにせよ、飼主を失った花子はその当座、近くである私の生家の神社の拝殿の床下にもぐり込んで夏を越したらしい。その花子に餌を与えていた書生の証言によると、いくら呼んでも近づかず、餌をおいておくといつの間にか失くなっていたという。
花子が社務所ではなく、私の家の台所に姿をみせたのは初秋になってからであった。今にして思うと何ケ月かの野良暮しで痩せこけた小さくなった体を縮めるようにしてうづくまっているのをみつけて哀れに思い、食べ残しの魚をプラスチックの皿にのせて与えると、長い時間をかけてきれいに食べた。
たまたま帰って来た主人がそれを見て、野良猫に餌などやると居つくぞと叱った時、なんという間のよさか、ねずみがおそれ気もなく我々の前を走り抜けようとした。当時、我が家はねずみの跳梁に手を焼いていた。花子がねずみにとびついた。あっという間にねずみはひっくり返って死んでいた。主人が変節した。かわいそうだから飼ってやろう。
近くに住んでいる娘がやって来て、捨て猫飼うなら、予防注射もしなけりゃ悪い病気を持っていないかお医者さんにみてもらわないと。直ちに花子はバスケットに入れられて、犬猫病院へ行くことになる。顔なじみの若先生が雌だから避妊手術をと話している所に老先生が現われて花子の口をちょいと開け、体をひっくり返して、仔猫なものか大年増だ、ちゃんと避妊手術をしているよ、とおっしゃった。で、花子はお腹を二度切られることもなく、バスケットに突っ込まれて無事に我が家へ帰って来た。

それから数えて十年、花子は、手のかからない猫である。病気もしないし、食欲旺盛、といって肥りすぎもしない。一日二回は神社の境内を巡回し、主人が社務所へ行く時はいそいそとお供をして行き、帰って来る。自分のテリトリイに他猫が入って来ると強烈な猫パンチをくらわせて退却させる。名前を呼ぶと返事をし、兎とびをして走って来る。
花子に口がきけたら訊いてみたい。ここに書いた私の想像が当っているかどうか。
とにかく、ぼけないで一緒に長生きしようよ、花子ちゃん。

(巻二十六)己が身の始末を問はる鳥雲に(神埼忠)

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(巻二十六)己が身の始末を問はる鳥雲に(神埼忠)

 

9月10日木曜日

 

長生きはしたくないしたくないと言いながら、今日の午後は区の無料健康診断を受けた。今日の句ではないが、始末は難しい。

健康診断はくそ暑い日の午後にノコノコ出掛けて行ってやるもんじゃない。

 

測るたびちがふ血圧小鳥来る(都丸美陽子)

 

昼飯を抜いていたので腹がへり、子規など思いながら菓子パンをかじった。

小倉だのつぶ餡だのとあんパンには四種類くらいある。加えてうぐいすパンもある。買ったのはつぶ餡とうぐいすパンでした。

 

読書:

 

ついでにリリオの図書サービスカウンターに寄りお願いしていた三冊を受け取り、

 

先ず、高野ムツオ氏の鑑賞読本を読んでおります。

 

死を怖れざりしはむかし老の春(富安風生)

 

を書き留めた。

風生が九十二歳の年頭吟だと解説されています。

達観などというものは私なんぞに出来るものではないのだ。

 

本日は五千歩で階段二回でした。

 

願い事-叶えてくださればありがたいのです。諦

観も達観も無理ですから、あれしかありません。

「日程表 - 藤沢周平」文春文庫 周平独言 から

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「日程表 - 藤沢周平」文春文庫 周平独言 から

このごろ、いやに日が短くなったような気がする。
俳句の冬の季語に短日というのがあり、短日や不足をいへばきりもなき、などという久保田万太郎の俳句があるが、それではなく気持の中のことである。気味がわるいほど、あっというまに一日がおわる。
そう感じるのは、ひとつは年をとって来たからたろうと思う。子供のころ、若いころは、見るもの聞くものが新鮮な経験である。ひとつひとつの経験に、驚きとか余韻とかが残る。しかし年とって来ると、大ていのものは見あき聞きあきて感動もヘチマもない。似たようなことを繰りかえして、日日を送るだけである。たまに新しい経験に出会っても、感動は短く、そしてすぐに忘れる。
こういう老いの兆候というものが、大前提としてあるのに加えて、もうひとつは生活がよくないのだと思う。このところ、ずーっと型にはまった単調な生活がつづいている。
それが自分で作った作業日程表といったもののせいだということは、大体わかっている。わかっているが、日程表を作ったのはわけのあることなので、そう簡単に捨てることもできないのである。
私はもともとが怠け者だったらしく、四年前に会社勤めをやめると、それが一度に表面に出て来た感じだった。
一日をふりかえってみると、朝はともかく七時に起きている。私が七時に起きるというと、はじめての編集者などはびっくりする。しかし、じつはこれが怠惰な一日の幕あけなので、朝起きたときに、私はもう昼寝のことを考えているのである。だから、たとえ朝の四時まで仕事をしても、七時に起きるのはべつに苦痛ではない。しかしそういうことは人には言わないので、聞いた人がびっくりするのである。
七時に起きて食事をすませると、仕事がつまっていなければ外に散歩に出る。バスに乗ったり、時には歩いたりして駅前に出る。そこで本屋をハシゴして回り、喫茶店でぼんやり時間をつぶすのが、私は好きである。そうして大体昼までぶらぶらとする。
仕事の日程がつまっていれば、散歩はやめてすぐに机にむかう。だが低血圧のせいもあってか、午前中はさっぱり気勢が上がらない。大がいは新聞を読み、郵便が来ると手紙を読んだり、一緒に送られて来た雑誌に眼を通したりしているうちに昼になる。 
それなら朝早くから机にむかうこともないようなものだが、やはり漫然と外をぶらついていては申しわけないような気がして、とにかく二階へ上がる。
誰に対して申しわけないと言えば、仕事をくれる出版社、締切りが迫っているのに、小説はまだ三分の一もすすんでいないなどとは、夢にも思わないだろう担当の編集者、また二階にいるからには書きものをしていると信じて疑わない家内、それに仕事の遅れを気にしている自分自身などである。こういうもろもろの申しわけないものの手前、ともわく机の前にじっと坐っている。
昼の食事がすむと眠くなる。夏の昼寝はよくあることだが、冬も昼寝する人はめずらしいと家内が言う。そうかも知れないが、眠いものは仕方がない。寝すごすということはあまりなく、三時前には目ざめて、さっぱりした気分で机にむかう。
しかしたとえばテレビで相撲をやっていれば、それも気になり、時間になると仕事を中断してテレビの前に坐る。また筆がつかえたところで、ひょいと手にした本が面白くて、つい読みふけったりしているうちに晩飯の時間になる。かんじんの仕事は遅遅としてすすまないのである。当然のむくいとして締切りが明日、明後日という日は、夜中の一時、二時、ときには朝まで仕事をやる羽目になる。
こういう状態の繰りかえしは、いかにもだらしないではないかと私は思った。第一身体によくない。それで仕事が重なったときには、行きあたりばったり方式ではなく、日程表にしたがって仕事をやることにしたのである。
こういうやり方は私の好みではなく、また仕事というものが、土台日割りで配分するほどの量でもないのだが、事情が右のようだから、試みにそうしたのである。日程表に、毎日書くべき原稿枚数、つまりノルマを明記したことはいうまでもない。
はじめはうまくいった。予定どおりに運んで、今日はもう書くものがないのかと、はればれと思う日もあった。しかしどのように結構な制度、仕組みにも、長い間には腐敗があらわれる。私の日程表にも腐敗が出て来た。
たとえば五十枚の小説を書くとする。私は初日の予定に五枚と書く。二日目は十五枚と書き入れ、全体として三日半か四日ぐらいで書き上がるような配分にする。
だが第一日目には私は日程表を見ながら、今日はたったの五枚だと思う。たったの五枚ならあわてることはないと思いながら、いつの間にかお昼になる。しかしまだ題名も決まっていないので、さすがに昼寝も出来ず、食後もすぐ机にむかう。だが思わしい題名がうかばないなまま、時がたつ。
このあたりで私は、たった五枚なら明日のノルマにくっつけてもどうということはないな、と思いはじめている。そして、そうだ相撲をやっていたっけ、と下に下りる。結局題名と名前を書いたぐらいで、一日が終る。翌日のノルマは二十枚になっている。初日に五枚、翌日十五枚とした配分には理由があることなのだから、いきなり二十枚が書けるわけはない。けっきょく半分も書けずに終るのだが、私は性こりもなく、ま、いいや、残りは明日の分にくっつけてがんばろうと思う。そう思ったとたんに、明日のノルマはおそるべき量にふくれ上がる。
そのふくらみを、どこで吸収するかというと、日曜、祭日である。せっかく休息日と書入れてあるその日に、私は馬車馬よろしく必死に働く。こういう人種を、郷里ではセヤミ(怠け者)の節句働きと呼ぶのである。
しかし、何ごともその立場になってみないとわからないものである。若かったころ、私はどこそこの親爺の節句働きを、奇異な眼で眺めたものだが、自分そうなってみると、その親爺が、ことさら世を拗[す]ねてそうしていたわけでないことが、よくわかるのである。
親爺は、近ごろの私のように、自分の怠け癖にうんざりしながら、焦りと悔恨にさいなまれつつ、鍬をふるっていたに違いないのだ。
怠惰にも型というものがあるらしく、私の生活は、一見して日程表以前にもどりつつあるようである。違うところはノルマが明確で、これがたえず良心を刺激するために、生活が萎縮し単調になっていることである。日程表など捨てようかと、いま私は思っている。だがそのあと一体どういうことになるかと思いながら、今日も私は茫然と机の前に坐っているのである。