4/4「水・渡船 - 永井荷風」岩波文庫 荷風随筆集(上)

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4/4「水・渡船 - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上)

江戸城の濠はけだし水の美の冠たるもの。しかしこの事は叙述の筆を以てするよりもむしろ絵画の技[ぎ]を以てするに如[し]くはない。それ故私は唯代官町の蓮池御門、三宅坂下の桜田御門、九段坂下の牛ヶ渕等古来人の称美する場所の名を挙げるに留めて置く。
池には古来より不忍池の勝景ある事これも今更説く必要がない。私は毎年の秋竹の台に開かれる絵画展覧会を見ての帰り道、いつも市気[しき]満々たる出品の絵画よりも、向ケ丘の夕陽敗荷[せきようはいか]の池に反映する天然の絵画に対して杖を留[とど]むるを常とした。そして現代美術の品評よりも独り離れて自然の画趣に恍惚とする方が遥に平和幸福である事を知るのである。
不忍池は今日市中に残された池の中[うち]の最後のものである。江戸の名所に数えられた鏡ケ池や姥ケ池は今更尋る由[よし]もない。浅草寺境内の弁天山の池も既に町家[まちや]となり、また赤坂の溜池も跡方なく埋[うず]めつくされた。それによって私は将来不忍池もまた同様の運命に陥りはせぬかと危[あやぶ]むのである。老樹鬱蒼として生茂[おいしげ]る山王の勝地[しようち]は、その翠緑[すいりよく]を反映せしむべき麓の溜池あって初めて完全なる山水の妙趣を示すのである。もし上野の山より不忍池の水を奪ってしまったなら、それはあたかも両腕をもぎ取られた人形に等しいものとなるであろう。都会は繁華となるに従って益々自然の地勢から生ずる風景の美を大切に保護せねばならぬ。都会における自然の風景はその都市に対して金力を以て造る事の出来ぬ威厳と品格とを帯びさせるものである。巴里にも倫塔にもあんな大きな、そしてあのような香[かんば]しい蓮の花の咲く池は見られまい。

 

都会の水に関して最後に渡船の事を一言[いちごん]したい。渡船は東京の都市が漸次[ぜんじ]整理されて行くにつれて、即ち橋梁の便宜を得るに従ってやがては廃絶すべきものであろう。江戸時代に遡[さかのぼ]ってこれを見れば元禄九年に永代橋が懸[かか]って、大渡[おおわた]しと呼ばれた大川口[おおかわぐち]の渡場[わたしば]は『江戸鹿子[えどかのこ]』や『江戸爵[えどすずめ]』などの古書にその跡を残すばかりとなった。それと同じように御厩河岸[おうまやがし]の渡し鎧[よろい]の渡を始めとして市中諸所の渡場は、明治の初年架橋工事の竣成[しゆんせい]と共にいずれも跡を絶ち今はただ浮世絵によって当時の光景を窺うばかりである。
しかし渡場はいまだ悉[ことごと]く東京市中からその跡を絶ったわけではない。両国橋を間にしてその川上に富士見の渡、その川下に安宅の渡が残っている。月島の埋立工事が出来上ると共に、築地の海岸からは新に曳船[ひきふね]の渡しが出来た。向島には人の知る竹屋の渡しがあり、橋場には橋場の渡しがある。本所の堅川[たてかわ]、深川の小名木川辺の川筋には荷足船[にたりぶね]で人を渡す小さな渡場が幾個所もある。
鉄道の便宜は近世に生れたわれわれの感情から全く羈旅[きりょ]とよぶ純朴なる悲哀の詩情をを奪去った如く、橋梁はまた遠からず近世の都市より渡船なる古めかしい緩[ゆるや]かな情趣を取除いてしまうであろう。今日世界の都会中渡船なる古雅の趣を保存している処は日本の東京のみではあるまいか。米国の都市には汽車を渡す大仕掛けの渡船があるけれど、竹屋の渡しの如く、河水[かわみず]に洗出[あらいだ]された木目の美しい木造りの船、樫の艪、竹の棹を以てする絵の如き渡船はない。私は向島の三囲[みめぐり]や白髯[しらひげ]に新しく橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない。私は唯両国橋の有無にかかわらずその上下に今なお渡場が残されてある如く隅田川その他の川筋にいつまでも昔のままの渡船のあらん事を希[こいねが]うのである。
橋を渡る時欄干の左右からひろびろした水の流れを見る事を喜ぶものは、更に岸を下って水上に浮び鴎と共にゆるやかな波に揺られつつ向[むこう]の岸に達する渡船の愉快を容易に了解する事が出来るであろう。都会の大道には橋梁の便あって、自由に車を通ずるにかかわらず、殊更[ことさら]岸に立って渡船を待つ心は、丁度表通に立派なアスファルト敷の道路あるにかかわらず、好んで横町や路地の間道[かんどう]を抜けて見る面白さとやや似たものであろう。渡船は自動車や電車に乗って馳[は]せ廻る東京市民の公生涯[こうしょうがい]とは多くの関係を持たない。しかし渡船は時間の消費をいとわず重い風呂敷包みなぞを背負ってテクテクと市中を歩いている者どもには大[だい]なる休息を与え、またわれらの如き閑散なる遊歩者に向っては近代の生活に味[あじわ]われない官覚の慰安を覚えさせる。
木で造った渡船と年老いた船頭とは現在並びに将来の東京に対して最も尊い骨董の一つである。古樹と寺院と城壁と同じくあくまで保存せしむべき都市の宝物である。都市は個人の住宅と同じくその時代の生活に適当せしむべく常に改築の要あるは勿論のことである。しかしわれわれは人の家を訪[と]うた時、座敷の床の間にその家伝来の書画を見れば何となく奥床[おくゆか]しく自[おのずか]ら主人に対して敬意を深くする。都会もその活動的ならざる他[た]の一面において極力伝来の古蹟を保存し以てその品位を保たしめねばならぬ。この点よりして渡船の如きは独りわれら一個の偏狭なる退歩趣味からのみこれを論ずべきものではあるまい。

(巻二十七)薄雲は月のうしろを通りけり(正岡子規)

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(巻二十七)薄雲は月のうしろを通りけり(正岡子規)

11月27日金曜日

効果があるのかないのか分からないが、ベランダにキンチョールを散布して亀虫などの虫除けにしている。その殺虫剤の朝夕の散布も冬季休止にすると細君のお達しが出た。

細君が生協の買い物帰りに花を買ってきた。トルコ桔梗とスペリカムというピンクの実だか蕾だか分からない花である。

桔梗や男に下野の処世あり(大石悦子)

と桔梗の句を引き合わせみたが、細君が図鑑片手に説明してくれたところによればトルコ桔梗は竜胆科の植物で桔梗科ではないそうだ。花の世界にも色々と事情があるのだろう。

りんどう咲く由々しきことの無きごとし(細見綾子)

の方が御時世ともマッチングしているのかも知れない。

散歩:

散歩日和ではないが、新道を歩いた。ついでに生協で個人情報満載書類のコピーを取って、トレーに一部置き忘れて慌てた。回収出来たが惚けが始まっている。困ったことだ。

本日は五千三百歩で階段は2回でした。

願い事-叶えてください。先がないことは悦ばしいことである。

3/4「水・渡船 - 永井荷風」岩波文庫 荷風随筆集(上)

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3/4「水・渡船 - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上)

以上河流[かりゅう]と運河の外なお東京の水の美にに関しては処々の下水が落合って次第に川の如き流れをなす溝川[みぞかわ]の光景を尋ねて見なければならない。東京の溝川には折々可笑しいほど事実と相違した美しい名がつけられてある。例えば芝愛宕下なる青松寺[せいしようじ]の前を流れる下水を昔から桜川と呼びまた今日では全く埋尽された神田鍛冶町の下水を逢初川[あいぞめがわ]、橋場総泉寺[はしばそうせんじ]の裏手から真崎[まつさき]へ出る溝川を思川[おもいがわ]、また小石川金剛寺坂下の下水を人参川[にんじんがわ]と呼ぶ類[たぐい]である。江戸時代にあってはこれらの溝川も寺院の門前や大名屋敷の塀外[へいそと]なぞ、幾分か人の目につく場所を流れていたような事から、土地の人にはその名の示すが如き特殊の感情を与えたものかも知れない。しかし今日の東京になっては下水を呼んで川となすことすら既に滑稽なほど大袈裟である。かくの如くその名とその実との相伴わざる事は独り下水の流れのみには留まらない。江戸時代とまたその以前からの伝説を継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には千仭[せんじん]の幽谷を見るように地獄谷(麹町にあり)千日谷(四谷鮫ケ橋にあり)我善坊ケ谷(麻布にあり)なぞという名がつけられ、また少しく小高い処は直ちに峨々[がが]たる山岳の如く、愛宕山道灌山待乳山なぞと呼ばれている。島なき場所も柳島三河島向島なぞと呼ばれ、森なき処にも烏森、鷺の森の如き名称が残されてある。始めて東京へ出て来た地方の人は、電車の乗換場を間違えたり市中の道に迷ったりした腹立まぎれ、かかる地名の虚偽を以てこれまた都会の憎むべて悪風として観察するかも知れない。

 

溝川は元より下水に過ぎない。『紫[むらさき]の一本[ひともと]』にも芝の宇田川を説く条[くだり]に、「溜池の屋鋪の下水落ちて愛宕の下より増上寺の裏門を流れてここに落[おつ]る。愛宕の下、屋敷々々の下水も落ち込む故宇田川橋にては少しの川のやうに見ゆれども水上[みなかみ]はかくの如し。」とある通り、昔から江戸の市中には下水の落合って川をなすものが少なくなかった。下水の落合って川となった流れは道に沿い坂の麓を廻[めぐ]り流れ流れて行く中[うち]に段々広くなって、天然の河流または海に落込むあたりになるとどうやらこうやら伝馬船を通わせる位になる。麻布の古川は芝山内の裏手近くその名も赤羽川と名付けられるようになると、山内の樹木と五重塔の聳[そび]ゆる麓を巡って舟しゆう[難漢字]の便を与うるのみか、紅葉の頃は四条派の絵にあるような景色を見せる。王子の音無川も三河島の野を潤したその末は山谷堀となって同じく舟をうかべる。
下水と溝川はその上に架[かか]った汚い木橋や、崩れた寺の塀、枯れかかった生垣、または貧しい人家の様と相対して、しばしば憂鬱なる裏町の光景を組織する。即ち小石川柳町の小流[こながれ]の如き、本郷なる本妙寺坂下の溝川の如き、団子坂下から根津に通ずる藍染川[あいそめがわ]の如き、かかる溝川流るる裏町は大雨[たいう]の降る折といえば必ず雨よう[難漢字]の氾濫に災害を被る処である。溝川が貧民窟に調和する光景の中[うち]、その最も悲惨なる一例を挙げれば麻布の古川橋から三之橋に至る間の川筋であろう。ぶりき板の破片の破片や腐った屋根板で葺[ふ]いたあばら家は数町に渡って、左右から濁水を挟[さしはさ]んで互にその傾いた廂[ひさし]を向い合せている。春秋[はるあき]時候の変り目に降りつづく大雨の度[たび]ごとに、芝と麻布の高台から滝のように落ちてくる濁水は忽ち両岸を氾濫して、あばら家の腐った土台からやがては破れた畳まで浸[ひた]してしまう。雨がハ[難漢字]れると水に濡れた家具や夜具蒲団を初め、何とも知れぬ汚らしい襤褸[ぼろ]の数々は旗か幟[のぼり]のように両岸の屋根や窓の上に曝[さら]し出される。そして真黒な裸体の男や、腰巻一つの汚い女房や、または子供を背負ったら児娘[こむすめ]までが笊[ざる]や籠や桶を持って濁流の中[うち]に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れて来る雑魚を捕えようと急[あせ]っている有様、通りがかりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の下[もと]に、或時はかえって一種の壮観を呈していることがある。かかる場合に看取せられる壮観は、丁度軍隊の整列もしくは舞台における並大名[ならびだいみよう]を見る時と同様で一つ一つに離して見れば極めて平凡なものも集合して一団をなす時には、此処[ここ]に思いがけない美麗と威厳とが形造られる。古川橋から眺める大雨の後の貧家の光景の如きもやはりこの一例であろう。

(巻ニ十七)いまどきのはやり唄聴くそぞろ寒(藤平寂信)

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(巻ニ十七)いまどきのはやり唄聴くそぞろ寒(藤平寂信)

11月26日木曜日

今時の流行り唄も、流行り病にもかかわり合いを持たないように致しております。私にとっての最新の流行り唄はスピッツのロビンソンでございますよ。過日、細君が今年の紅白の出場予定者表を持ってきましたが、殆ど分からない方々でした。

午前中に泌尿器科に定期診察に伺う。混んでました。やたら検査をしますので困ったものだ。

帰りに餡パンを買う。うぐいす餡パンが食べたかったのだが、この辺りではヨーカ堂の地下スーパーのヤマザキパンのコーナーでしか見かけない。薬局の順番待ちの間に行って買ってきた。スーパーで餡パン一個ともいかず賞味期限も29日だったのでうぐいす餡パン二個と高級餡パン一個を買った。過日、コンビニで小豆餡パンに生クリームらしきものがついている餡が二層の物を食したが、旨かった。また食べてみたい。

鶯や時を止めたるひと呼吸(友井正明)

本日も五千八百歩で階段は2回でした。

洗濯日和につき、帰宅後ズボンと通常の衣類の洗濯をいたす。干しながら見下ろせば、老人たちの散歩も多い。歩行用補助車に寄りかかりながら介護者と歩行練習に取り組む老女もゆっくりと通って行った。介護者が励ますが、励まされてどうにかなるようなものではないようだ。よちよち歩きに始まりそして終わるのか。

願い事-叶えてください。歩けているうちにすっぱりと。

2/4「水・渡船 - 永井荷風」岩波文庫 荷風随筆集(上)

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2/4「水・渡船 - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上)

私が十五、六歳の頃であった。永代橋の河下[かわしも]には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の練習船として立腐れのままに繋がれていた時分、同級の中学生といつものように浅草橋の船宿から小舟を借りてこの辺を漕ぎ廻り、河中に碇泊している帆前船を見物して、こわい顔をした船長から椰子の実を沢山貰って帰ったことがある。その折私たちは船長がこの小さな帆前船を操って遠く南洋まで航海するのだという話を聞き、全くロビンソンの冒険談を読むような感に打たれ、将来自分たちもどうにかしてあのような勇猛なる航海者になりたいと思ったことがあった。
やはりその時分の話である。築地の河岸の船宿から四梃艪[よんちようろ]のボオトを借りて遠く千住の方まで漕ぎ上った帰り引汐につれて佃島の手前まで下って来た時、突然向から帆を上げて進んで来る大きな高瀬船に衝突し、幸いに一人も怪我はしなかったけれど、借りたボオトの小舷[こべり]をば散々に破[こわ]してしまった上に櫂を一本折ってしまった。一同は皆親がかりのものばかり、船遊びをする事も家へは秘密にしていた位なので、私たちは船宿へ帰って万一破損の弁償金を請求されたらどうしようかとその善後策を講ずるために、佃島の砂の上にボオトを引上げ浸水をかい出しながら相談をした。その結果夜暗くなってから船宿の桟橋に船を着け、宿の亭主が舷[ふなべり]の大破損に気のつかない中[うち]一同一目散に逃げ出すがよかろうという事になった。一同はお浜御殿の石垣下まで漕入ってから空腹を我慢しつつ水の上の暗くなるのを待ち船宿の桟橋へ上るが否や、店に預けて置いた手荷物を奪うように引掴み、めいめい後をも見ず、ひた走りに銀座の大通りまで走って、漸[やつ]と息をついた事があった。その頃には東京府立の中学校が築地にあったのでその辺の船宿では釣船の外にボオトをも貸したのである。今日築地の河岸を散歩しても私ははっきりとその船宿の何処[いずこ]にあったかを確めることが出来ない。わずか二十年前[ぜん]なる我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化はむしろ驚くの外はない。


大川筋一帯の風景について、その最も興味ある部分は今述べたように永代橋河口の眺望を第一とする。吾妻橋両国橋等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋におけるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。これを例するに浅野セメント会社の工場と新大橋の向に残る古い火見櫓の如き、あるいは浅草蔵前の電燈会社と駒形堂の如き、国技館と回向院の如き、あるいは橋場の瓦斯タンクと真崎稲荷[まつさきいなり]の老樹の如き、それら工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺磧とは、いずれも個々別々に私の感想を錯乱させるばかりである。されば私はかくの如く過去と現在、即ち廃頽と進歩との現象のあまりに甚しく混雑している今日の大川筋よりも、深川小名木川より猿江裏の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残も容易[たやす]くは尋ねられぬほどになった処を選ぶ。大川筋は千住より両国に至るまで今日においてはまだまだ工業の侵略が緩慢に過ぎている。本所小梅から押上辺[へん]にいたる辺[あたり]りも同じ事、新しい工場町としてこれを眺めようとする時、今となってはかえって柳島の妙見堂と料理屋の橋本とが目ざわりである。

 

運河の眺望は深川の小名木川辺に限らず、いずこにおいても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまった感興を起させる。一例を挙ぐれば中洲と箱崎町の出端[でばな]との間に深く突入[つきい]っている堀割はこれを箱崎町の永久橋[えいきゆうばし]または菖蒲河岸の女橋[おんなばし]から眺めやるに水はあたかも入江の如く無数の荷船は部落の観をなし薄暮風収まる時競[きそ]って炊烟[すいえん]を棚曳[たなび]かすさま正に江南沢国[こうなんたくこく]の趣をなす。凡[すべ]て溝渠[こうきよ]運河の眺望の最も変化に富みかつ活気を帯びる処は、この中洲の水のように彼方此方から幾筋の細い流れがやや広い堀割を中心にして一個所に落合って来る処、もしくは深川の扇橋の如く、長い堀割が互に交叉して十字形をなす処である。本所柳原の新辻橋、京橋八丁堀の白魚橋、霊岸島の霊岸橋あたりの眺望は堀割の水のあるいは分れあるいは合[がつ]する処、橋は橋に接し、流れは流れと相激[あいげき]し、ややともすれば船は船に突き当ろうとしている。私はかかる風景の中[うち]日本橋を背にして江戸橋の上より菱形をなした広い水の片側には荒布橋[あらめばし]つづいて思案橋、片側には鎧橋[よろいばし]を見る眺望をば、その沿岸の商家倉庫及び街上橋頭[きようとう]の繁華雑踏と合せて、東京市内の堀割の中[うち]にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に歳暮の夜景の如き橋上[きようじよう]を往来する車の灯[ひ]は沿岸の燈火と相乱れて徹宵[てつしよう]水の上に揺[ゆらめ]き動く有様銀座街頭の燈火より遥に美麗である。
堀割の河岸には処々[しよしよ]物揚場[ものあげば]がある。市中の生活に興味を持つものには物揚場の光景もまたしばし杖を留むるに足りる。夏の炎天神田の鎌倉河岸、牛込揚場の河岸などを通れば、荷車の馬は馬方と共につかれて、河添[かわぞい]の大きな柳の木の下に居眠りをしている。砂利や瓦や川土[かわつち]を積み上げた物蔭にはきまって牛飯[ぎゆうめし]やすいとんの露店が出ている。時には氷屋も荷を卸している。荷車の後押しをする車力[しゃりき]の女房は男と同じよいな身仕度をして立ち働き、その赤児[あかご]をば捨児[すてご]のように砂の上に投げ出していると、その辺には痩せた鶏が落ちこぼれた餌をあさりつくして、馬の尻から馬糞の落ちるのを待っている。私はこれらの光景に接すると、必[かならず]北斎あるいはミレエを連想して深刻なる絵画的写実の感興に誘[いざな]い出され、自ら絵事[かいじ]の心得なき事を悲しむのである。

(巻二十七)みみず鳴く日記はいつか懺悔録(上田五千石)

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(巻二十七)みみず鳴く日記はいつか懺悔録(上田五千石)

11月25日水曜日

日記と言えばここのところ数日、

「「老い」の見立て - 川本三郎岩波現代文庫 荷風と東京(上)-『断腸亭日乗』私註 から

を読んでいる。

この 「「老い」の見立て」では実際の年齢より老人ぶる荷風を“分析”している。日記というのはどれもこれも正直な記録ではないのだが、著者はこの章を以下のように纏めている。

《 庭いじり、焚き火、曝書、文房清玩、墓参......荷風は、好んでそういう老人くさい日常を作り出していった。現実の荷風はもっと俗人であったろうし、日々の暮しもまたもっと騒がしかったに違いないが、荷風は、「断腸亭日乗」のなかでは、そうした俗気を出来る限り排そうとした。自分を「老人」に見立てることで、世俗ては関わらないですむ理想の隠れ里生活を作り上げてゆこうとした。「断腸亭日乗」はその意味で、日記であると同時にフィクションであるといってもいいだろう。》

すでにして己れあざむく日記買う(岡本眸)

細君は雨のなかを通帳の記帳に出かけた。転んで怪我でもされると困るのだが、言い出したら聞かないから放っておくしかない。(昼頃焼売弁当を買って無事帰宅なされた。)

25日なのでATMには列が出来ていたそうだ。

一夜[ひとよ]づつ淋しさ替る時雨かな(巴人)

散歩と読書:

駅前に出かけて本を返却した。後が来ない。仕方がないので書棚から文春の巻頭随筆を取り出して

「やまのて線 - 柳井乃武夫」文春文庫 巻頭随筆1から

を読んでいる。なぜヤマテ線ではなくヤマノテ線なのか、ほかの蘊蓄随筆だが、そうなのかと頷くところがある。

《同じ私鉄でも甲武鉄道は地名の発音に忠実に駅名をつけた。御茶ノ水、市ヶ谷、四ツ谷千駄ヶ谷と、ノやケやツをつけている。これに対して日本鉄道の沿線の駅名を見ると、秋葉原鴻巣[こうのす]、熊谷、雀宮[すずめのみや]、宇都宮、槻木[つきのき]、一戸、三戸、八戸と漢字の連続で、ノもケもつけない官鉄流だ、だから山手線にもノはつかなかった。》

みちのくの夜長の汽車の長停り(阿波野青畝)

本日は五千八百歩で階段は2回でした。

願い事-叶えてください。

どうでもいいことですが明日は三の酉ですかい?

ポケットのなかでつなぐて酉の市(白石冬美)

すれ違ふ熊手が語る景気かな(腰山正久)

寄り道も我が道もなし酉の市(長谷川栄子)

1/4「水・渡船 - 永井荷風」岩波文庫 荷風随筆集(上)

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1/4「水・渡船 - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上)

仏蘭西人エミル・マンユの著書『都市美論』の興味ある事は既にわが随筆『大窪だより』の中に述べて置いた。エミル・マンユは都市に対する水の美を論ずる一章において、広く世界各国の都市とその河流及び江湾の審美的関係より、更に進んで運河沼沢[しようたく]噴水橋梁等の細節にわたってこれを説き、なおその足らざる処を補わんがために水流に映ずる市街燈火の美を論じている。
今試[こころみ]に東京の市街と水との審美的関係を考うるに、水は江戸時代より継続して今日においても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となっている。陸路運輸の便を欠いていた江戸時代にあっては、天然の河流たる隅田川とこれに通ずる幾筋の運河とは、いうまでもなく江戸商業の生命であったが、それと共に都会の住民に対しては春秋四季の娯楽を与え、時に不朽の価値ある詩歌絵画をつくらしめた。しかるに東京の今日市内の水流は単に運輸のためのみとなり、全く伝来の審美的価値を失うに至った。隅田川はいうに及ばず神田のお茶の水本所の堅川[たてかわ]を始め市中の水流は、最早や現代のわれわれには昔の人が船宿の桟橋から猪牙船[ちよきぶね]に乗って山谷[さんや]に通い柳島に遊び深川に戯れたような風流を許さず、また釣や網ね娯楽をも与えなくなった。今日の隅田川は巴里[パリ]におけるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育[ニユーヨーク]のホドソン、倫敦[ロンドン]のテエムスに対するが如く偉大なる富国の壮観をも想像させない。東京市の河流はその江湾なる品川の入海[いりうみ]と共に、さして美しくもなく大きくもなくまたさほどに繁華でもなく、誠に何方[どつち]つかずの極めてつまらない景色をなすに過ぎない。しかしそれにもかかわらず東京市中の散歩において、今日なお比較的興味あるものはやはり水流れ船動き橋かかる処の景色である。
東京の水を論ずるに当ってまずこれを区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川中川六郷川の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流[さいりゅう]、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川の如きその名のみ美しき溝渠[こうきよ]、もしくは下水、第六は江戸城を取巻く幾重の濠、第七は不忍池角筈十二社の如き池である。井戸は江戸時代にあっては三宅坂側の桜ケ井、清水谷の柳の井、湯島の天神の御福の井の如き、古来江戸名所の中[うち]に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられ所在の地さえ大抵は不明となった。

東京はかくの如く海と河と堀と溝と、仔細にに観察し来ればそれら幾種類の水 - 即ち流れ動く水と淀
んで動かぬ死したる水とを有する頗[すこぶる]変化に富んだ都会である。まず品川の入海[いりうみ]を眺めんにここは目下なお築港の大工事であれば、将来如何なる光景を呈し来[きた]るや今より予想する事はできない。今日までわれわれが年久しく見馴れて来た品川の海は僅に房州通[ぼうしゆうがよい]の蒸気船と円[まる]ッこい達磨船[だるません]を曳動[ひきうごか]す曳船の往来する外、東京なる大都会の繁栄とは直接にさしたる関係もない泥海である。潮の引く時泥土[でいど]は目のとどく限り引続いて、岸近くには古下駄に炭俵、さては皿小鉢や椀のかけらに船虫[ふなむし]のうようよと這寄るばかり。この汚い溝[どぶ]のような沼地を掘返しながら折々は沙蚕[ごかい]取りが手桶を下げて沙蚕を取っている事がある。遠くの沖には彼方[かなた]此方[こなた]に澪[みお]や粗朶[そだ]が突立っているが、これさえ岸より眺むれば塵芥[ちりあくた]かと思われ、その間にうかぶ牡蠣舟や苔取[のりとり]の小舟も今は唯強いて江戸の昔を追回[ついかい]しようとする人の眼にのみ聊[いささ]かの風趣を覚えさせるばかりである。かく現代の首府に対しては実用にも装飾にも何にもならぬこの無用なる品川湾の眺望は、彼の八[や]ッ山の沖に並んでうかぶこれも無用なる御台場と相俟[あいま]って、いかにも過去った時代の遺物らしく放棄された悲しい趣を示している。天気のよい時白帆や浮雲と共に望み得られる安房上総の山影[さんえい]とても、最早や今日の都会人には彼の花川戸助六が台詞にも読込まれているような爽快な心持を起させはしない。品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く湮滅[いんめつ]してしまったにかかわらず、その代りとして興るべき新しい風景に対する興味は今日においてはいまだ成立たずにいるのである。
芝浦の月見も高輪のニ十六夜待[にじゆうろくやまち]も既になき世の語草[かたりぐさ]である。南品[なんぴん]の風流を伝えた楼台[ろうだい]も今は唯不潔なる娼家[しようか]に過ぎぬ。明治二十七、八年頃江見水蔭子[えみすいいんし]がこの地の娼婦を材料として描いた小説『泥水清水[どろみずしみず]』の一篇は当時硯友社[けんゆうしや]の文壇に傑作として批評されたものであったが、今よりして回想すれば、これすら既に遠い世のさまを描いた物語のような気がしてならぬ。
かく品川の景色の見捨てられてしまったのに反して、荷船の帆柱と工場の煙筒の叢[むらが]り立った大川口[おおかわぐち]の光景は、折々西洋の漫画に見るような一種の趣味に照して、この後とも案外長く或一派の詩人を悦[よろこ]ばす事が出来るかも知れぬ。木下杢太郎北原白秋諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋あたりの生活及びその風景によって感興を発したらしく思われるものがすくなかった。全く石川島の工場を後[うしろ]にして幾艘となく帆柱を連ねて碇泊するさまざまな日本風の荷船や西洋形の帆前船[ほまえせん]を見ればおのずと特種の詩情が催される。私は永代橋を渡る時活動するこの河口[わかぐち]の光景に接するやドオデエがセエン河を往復する荷船の生活を描いた可憐なる彼[か]の『ラ・ニベルネイズ』の一小篇を思出すのである。今日の永代橋には最早や辰巳の昔を回想せしむべき何物もない。さるが故に、私は永代橋の鉄橋をばかえってかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思わない。新しい鉄の橋はよく新しい河口[かこう]の風景に一致している。