(巻二十九)小当たりに恋の告白四月馬鹿(中村ふじ子)

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(巻二十九)小当たりに恋の告白四月馬鹿(中村ふじ子)

5月3日月曜日

昨夜アキノさん(中央)と近況交換。

冬蜂に蜜の記憶のありやなし(谷口智行)

午前は家事多し。4部屋の拭き掃除、4部屋の窓の敷居掃除、マット干し、布団干し、毛布干し、洗濯物干し、クリーニング屋からのアップ、昼食の温め。午前はこれで終わる。

芋虫に異変あり。太郎虫が消えた。食われてしまったのだろうか?二郎虫、三郎虫は健在である。

後方は異変を知らず蟻の列(芹澤由美)

午後は生協へ買物へ行く。生協までだと往復で1000歩がやっとである。今日は午前のクリーニング屋さんと合わせて二千五百歩でした。階段は2回でした。

朝日俳壇を読み返し読み返ししたが今週は“なし”だ。

願い事-叶えてください。さっさと知らないうちに。

虫けらも我も野で泣く昼の星(増田まさみ)

(巻二十九)しぐるるや近所の人ではやる店(小川軽舟)

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(巻二十九)しぐるるや近所の人ではやる店(小川軽舟)

5月2日日曜日

フィリピンのアキノ元警部さんから顔友の振り込みがあった。あれから25年以上経った。

フィリピンでも色々なことを夢中でやったが、「終ってみれば」の感はある。

三匹の芋虫は元気に若葉を食い散らかしている。

春雷のため散歩は致さず。ゴミを集積場まで持って行ったり、建物の周囲をチョロチョロして七百歩ほど歩いたらしい。

願い事-叶えてください。さっさと知らないうちに。

厭世感の英語を調べたら、pessimismとmisanthropyとが候補に出た。pessimismの方が自分には近いと思う。後者は嫌人症らしい。悲観症と芥川症(将来に対する漠然とした不安)には苛まれているが、嫌人症ではないだろう。

将来なんてないのだが、自裁しない限り死ぬまでの時間はあるので困る。

「荷風散人を悼む - 大佛次郎」講談社文芸文庫 大佛次郎随筆集 旅の誘い から

荷風散人を悼む - 大佛次郎講談社文芸文庫 大佛次郎随筆集 旅の誘い から

永井荷風氏がなくなった。存生中から世間に隠れて暮らしていたが死までが人の目から隠されていた。陶工の尾形乾山が江戸で死んだ時、孤独な老人の貧しい独門だったので、しばらく近所でも知らずにいた。乾山は世間と交流がなかったわけではあるまいから、孤独な死は事故であろう。荷風さんのは自らひそかに求めていた最後だったろう。それほど徹底して孤独で、えらい人だったとは信じられないが、公園の踊子や町の女たちに囲まれての極楽往生だったら、にぎやかでそれもよいとしたろうが、平常口に説き、そうできれはと心ひそかに望むこともあったろう。ひとりぼっちでわずらわされない静かな死だから、荷風さんは肯定されて目をつぶったのではないか?武士でなく文士の最後としてうらやましいようなことである。終りをまっとうしたことではないか?
「冷笑」「牡丹の客」「ふらんす物語」などの荷風さんは、颯爽とした洋行帰りの小説家で、文壇では、新しい西洋花を見せられたような感じだった。
「日和下駄」のあたりまで切れ味はいかにも鋭利である。これが現代の日本や日本人がいやになってしまって、滅びてしまった江戸にいつの間にか逃げ込んでしまう。世間や人間の愚かさをいかに笑うか、であった。生活も市隠の姿を取り、当世ふうの艶隠者と成り果てた。一種の病気のように、人をおそれ、世を警戒し、それも自分は、生きる愚しささびしさをつまみ食いにまぎらせて、小さい世界の結構楽しい生涯ではなかったか?日記を見ると、あれだけ徹底した軍人ぎらい、政治家ぎらいはない。それが感性の上だけのもので、昔の江戸人のようなとうかい[難漢字]した小さい世界のものだったが、その範囲でも知的好奇心の強いこと、心の働きの若々しさは、日本人離れしたもののまま残った。しつこく、一貫している。「雨瀟瀟」は細いしゃれた趣味のものだろうが、「濹東綺譚」になると、骨にしみる人生孤独の寒風が白々と吹込んでいる。
荷風さんは、若い日に書いた「小説作法」の中でアンリ・ド・レニエの作品を小説の手本とすべきだと説いている。レニエという詩人は、回顧的な、また花やかな隠遁な性を持ったひとである。エドモン・ジャルウが書いた評論だったと記憶するが、レニエを論じて過去の時代を小説に書くと、ラブレエふうで陽気で出てくる人物も快活で明るいが、現代小説になると、厭世的な調子を免れ得ぬ、と指摘している。レニエ自身も、過ぎてしまえば人生の物事は苦いが、ほの明るい微笑にくるんでながめられると書いている。レニエが辿ったものは、ギャランなフランスの王朝時代の話か、イタリアのベネチアの花やかだった時代の物語が多い。荷風さんの江戸は決して住みよい所でなく、イヤな思いがいまよりも多かったのは無論だろうが、現実をしゃれのめし、皮肉な諧謔でもてあそんだ江戸人の弱い者の強がりが、荷風さんの現代からのよりどころとなっていた。「腕くらべ」「おかめ笹」も、横合から「見た」小説であって、作者は、話のなかにいない。笑う支度をした傍観者である。
私は若い時から荷風さんの小説の愛読者であった。理由なく、ほれぼれと好きだったのである。しかし「日和下駄」ころまですぐれた文明批評を作中に示しながら、なぜそれをやぼと考えても押通してくれなかったか、と、くやしいのであった。「日和下駄」あたりから後の荷風さんは、小さい庵を結んで、現代の歴史から離れ、貝殻の中に身をかがめられた。青春の時の強い思想の火花は、小説よりも、日記や随筆の中に光を放っているのである。まことに日本的な生き方だった。戦後の日本人に、この趣味や感性の遺伝は薄れたが、変人と見せて世をとうかい[難漢字]したが、実は浮世を住み憂しとする臆病な善人だったのであろう。ご冥福を祈る。永井先生。いまこそ、静かでしょう。いや、静かでなくとも、現世の方が面白いよといわれるだろうか?

(巻二十九)何たる幸せグラタンに牡蠣八つとは(守屋明俊)

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(巻二十九)何たる幸せグラタンに牡蠣八つとは(守屋明俊)

5月1日土曜日

快眠とは云えなかったが、暗闇で煩悶することはなく朝を迎えた。

4部屋の掃除機がけとシーツ2枚の洗濯をした。洗濯屋に出来上がりを受け取りに行ったが、午後に届くとのことで空振り。

洗濯屋から戻ると玄関のドアに蛾が停まっていた。急ぎ割り箸で摘まみ手すりの外へ放り投げた。

とりあへず割箸さがす毛虫かな(矢野誠一)

ミカンの芋虫は健在であるがあちこちの葉っぱを食い散らかし行儀が悪い。

散歩:米を買いに生協まで行く。いつもの佐渡コシヒカリ2キロが百円安くなっていた。そういう季節になったのか。ついでにピーナツを買う。胡麻煎餅は匂いが強く大変不評だったのでピーナツにしてみた。昨晩はショッツで2杯やってみた。今晩はピーナツでショッツ致そうか。

本日は三千五百歩で階段は2回でした。

願い事-叶えてください。

永らへてみても良し悪し寝酒かな(未詳)

「荷風追想 -正宗白鳥」講談社文芸文庫 白鳥評論 から

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荷風追想 -正宗白鳥講談社文芸文庫 白鳥評論 から

永井荷風逝去の報に接す。晴天の霹靂の如きか。あるいは来るものがついに来たかという常套の感じか。
私は氏と年齢を同じうしていたため、氏の生活ぶりや健康状態に関心を持っていたが、親しく交ったことはなかった。お互いに明治以来、長い間、文筆業にたずさわっていたのであったが、作風も人生観も、全く異っているといっていいほど異っていたので、たまに何処かで会ったって、打ち解けた話の出来そうではなかった。
いつ頃からか、氏は人間嫌いであると、文壇の噂で極められていたが、私もいつ頃からか、人間嫌いのように、世間から極印を捺[お]されていた。しかし、私は、自分で自分の心境を検討して、決して人間嫌いではないと断定していた如く、荷風君だって、人間嫌いではあるまいと推察していた。人間嫌いであんな小説が書けるものではない。人一倍、人間が好きだったのではあるまいか。
その心理の研究は別として、私は荷風の作品は殆んどすべてを読んで、そのすべてを愛好した。『地獄の花』など、初期の作品は読んでいなかったが、数年間欧米に滞在して、帰りたくないのに、余儀なく帰って来てからの氏の作品に漂っている気持は、同年の私の青春を揺り動かしていたように追憶されるのである。「新潮」に出た『祭りの夜語り』(?)は、氏の帰朝後最初の作品であったと記憶しているが、あれが、私には最も感銘が深かったのだ。『新帰朝者日記』『監獄署の裏』『牡丹の客』『すみだ川』。
小山内薫の紹介で『西洋音楽最近の傾向』の原稿を手にした時は、私には、読んでも、音楽の事はよく分からなかったのに関らず、それを、読売の日曜か月曜かの文芸附録に、一ページを通して掲載した。読売は自然主義の機関新聞であったように伝説的に言われているが、そんなことはなかったのだ。永井氏も三田に勤めるようになるまでは、自然主義、非自然主義のへだてはなかった筈だ。何かの随筆的小説が発売禁止になった時、氏は、それに対する皮肉な感想を私あてで読売に寄稿した。自分の作品が日本で禁止されるのなら、自分は、フランス文で書かねばならないか。そうなると、フランス文が上手になるだろうというような事も書かれてあった。

私が永井氏にはじめて会ったのは、帝劇の廊下に於いてであった。生田葵山の紹介によるのだ。あとで葵山は「二人ともそっけないので、おれも取りなしようがなかった」と笑っていた。喫茶店のプランタンではおりおり会っていたが他所[よそ]ながら会っていただけだ。しかし、一度、一しょに加賀太夫の新内を聴きに行ったのは不思議だ。「紫朝のすすり泣きの新内よりも、たたきつけるような加賀太夫のが面白い。あれが本格的か。」と、音曲なんか没分暁漢[わからずや]の私が言うと「或いはしからん」と、荷風君がお愛想に応じたことを、今私は興味を持って思い出すのである。
氏は、あの頃、毎日のように、風月堂へ午餐を食べに行っていたらしく、貧乏な文壇人に羨まれていたが、私は帝国ホテル宿泊中、おりおり其処へ行っていたので、或る日、一しょに食事をした。
「この頃は新進の作家が幅を利かせて多額な原稿料を取るので、我々もその伴をして原稿料の値上げをされるようになった。」などと、話したりしたが、打ち解けて話したのは、その時だけである。
それから或る夏軽井沢のホテルで会った。久米正雄君もそのホテルにいた。我々の知人某が、或る芸者を連れて、軽井沢の或る日本宿に行っていて、そこで不意の死を遂げ某の細君が東京からかけつけて、一騒ぎあったのだが、久米、永井、私などホテルで一しょに食事をしたあと、久米君は死者の後始末にかかりあっていたようであったが、後日、久米君は「僕がいなくなると、二人は黙って、よそよそしくお茶を飲んだりしていた。」と、誰かに話したそうだ。
私が荷風君に接触したのは、一生を通じてこれっ切りである。
しかし、私は氏の晩年の生活振りには、むしろ好意を持っていた。孤独に徹していることに廔々我及ばずと思っていた。

(巻二十九)噺家の扇づかいも薄暑かな(宇野信夫)

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(巻二十九)噺家の扇づかいも薄暑かな(宇野信夫)

4月30日金曜日

荷風の命日だ。

荷風の忌お一人さまとして帰心(駄楽)

昨日の昼寝がよくなかった。浅い眠りで濃い夢の疲れる一夜であった。

午前中は家事もなくダラダラと過ごす。浅い眠りもダラダラも嘆くほどのことではない。何も想わなければ苦痛でもない。

午後は散歩と買い物に出かけた。図書館で予約しておいた角川俳句4月号を借り受ける。館内閲覧は禁止になっている。

買い物のついでに胡麻煎餅を買う、そのついでにポケット瓶を買ってしまった。何か喰いたい呑みたいと思ったのは久し振りのことだ。逢茶喫茶逢飯喫飯。

本日は二千七百歩で階段は1回でした。

帰宅して、角川俳句を捲る。先ず西村麒麟さんの近況を確めた。

書き留めた句は、

達観は嘘だと思ふ新生姜(大牧広)

だけ。

厨事-鶏肉とコーンの炒め物を炒めた。ブリを焼いた。

願い事-叶えてください。知らないうちに。

「飾り立てた霊柩車で...... - 半藤一利」ちくま文庫 荷風さんの戦後 から

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「飾り立てた霊柩車で...... - 半藤一利ちくま文庫 荷風さんの戦後 から

いちばん最後に、拙書『永井荷風の昭和』ですでに書いたことながら、ここにそのままそっくり載せることにしたい。読んではいない人もおられるであろうから。最晩年の『日乗』の、あのすさまじいばかりに連続的な記載となった「正午浅草」についてである。すなわち、
《雨。後に陰。正午浅草》《陰。後に晴。正午浅草。》《晴。正午浅草。帰宅後菅野湯。》《晴。正午浅草。》《晴。後に陰。正午浅草。》《旧十二月一日。陰。正午浅草。》......どこまでもつづく「正午浅草」の文字の連続をみていると、悲傷長嘆の想いを深くする。
しかし、近ごろになって、何となくわかったような気になっている。日付と天気と正午浅草と書くことは、決して残された唯一の楽しみとしてはなんかではなかった。それが文人としての仕事であり、書きつづけることが先人の文業におのれも殉じることを、荷風としては意味していたのではなかったか。
〈十五日。木。晴。始不登衛〉
〈十六日。金。夜来雨。在家第二日。南弘来。不見〉
〈十七日。土。雨。在家第三日。賀古又至〉
〈十八日。日。陰。小金井君子至〉
〈十九日。月。雨。在家第五日。浜野知三郎至〉
以下、天候はなく曜日と在家第十五日、在家十六日......とえんえんとつづく。森鴎外の大正十一年六月の日記である。没したのは同年七月九日。最後の日の七月五日は在家〈第二十一日〉となっている。荷風最晩年の『日乗』の原型はここにある。荷風さんは鴎外先生と命日を同じくすることを若いときから望んでいた。老いていよいよますますそれを希求し、それで鴎外にならって《陰。正午浅草》をえんえんと書きつづけたのである。
以上再説。というわけで、この推理に今度は、すでにふれたように、文化勲章を貰ったのはまさしく『断腸亭日乗』全巻ゆえ、との確信が加わる。斃れてのち
 已む、なのである。「正午浅草」の書きつがれた理由は十分に解明されたものと勝手に考えている。
そういえば小門勝二氏『永井荷風伝』「年譜」に、荷風が冗談めかして語っていたという興味あふれる話が載せられている。
「ぼくが死ぬときは、ぽっくり死にますぜ。そうなれるように観音さまにおまいりしてかたんですからね。出来れば九日という日がいいな。これじゃ欲張りすぎますかね。森先生も上田先生も九日に亡くなられたんですよ。月は違っても九日に死ねればいいとぼくは祈っているんですよ。.....」
昭和三十四年四月三十日未明、まさしく望みどおり荷風はぽっくり死んだ。新聞はいっせいにその死を報じた。「臨終も孤独のままに......文化勲章作家永井荷風氏/貫いた奇人ぶり/主なき汚れ放題の住居」(毎日新聞、三十日夕刊)など、その死に方の特異さを強調した見出しが躍った。
その前日の四月二十九日の『日乗』にこうある。これがいちばんお終いの記載である。
「祭日。陰。」
祭日すなわち天皇誕生日である。荷風宅の門前には、日の丸の旗がなびいていた。文化勲章を受章した直後に荷風はあわてて日の丸の旗を購入したという。祭日には、それをきちんと掲げて、散々におのれの文業にたいして迫害してきた国家の処遇に、ひそかに報いているのである。これを皮肉ととるか、愡けたととるか。敗戦日本。母国を愛するものがいなくなったゆえに、われひとりは国を愛す、ということであるのか。荷風はやっぱり明治の人なのである。いや、風の吹くまま気のむくまま、風狂の徒に余計な規範なし、とするか。
翌三十日、旗の仕舞われた家を、身の回りの世話をしていた福田とよが訪ねてきた。いくら外から呼んでも返事がなかったので不審に思い、奥の六畳の間の襖を開けた。皺くちゃな万年床の上で、紺の背広とこげ茶のズボンをはいたまま、荷風は頭を南向きにしてうつ伏せにこと切れていた。枕元の火鉢の中と畳の上に、黒ずんだ大量の血が吐かれてあった。他殺の疑いもあるとして、知らされて駆けつけた佐藤優剛医師によって警察に連絡され、現場検証の結果、胃からの大量出血による心臓麻痺と死因がはっきりしたのは午後五時である。死亡推定時刻は午前三時。ボストン・バッグに入っていた預金通帳の総額は二千三百三十四万四千九百七十四円、それに手の切れるような新しい札で現金が三十一万三百八円も入っていた。荷風さんは、ことによると、この日に死ぬつもりなんかなく、五月九日まで何とか頑張るつもりで金を下ろしておいたのではなかったか。これほどの現金をみるとそう考えてみたくなる。それはならなかったが、ともかく、その望みどおり首尾一貫させての見事な野たれ死にを遂げたのである。
それに、もう一つ、遺言のようなものはどこにもなかったのであるが、前にも引用した昭和三十年刊『荷風思出草』に、死後のことについて、相磯凌霜氏が前々から荷風から聞いた話として、こんなことを語っている。
「前によく先生とお葬いの話をしましたね。先生のお葬いは差荷[さしにない]の駕籠で、なるべく雨のショボショボ降っている夕方、駕籠のあとから私がタッタひとり、冷飯草履に尻つぱしよりでボンノクボまではねを上げて、トボトボ三輪の浄閑寺までついていくなんて決めていましたが、もうだめですね。よほどいなかの葬儀屋へでもいかなけりやあ、差荷の駕籠なんてありませんよ。先生の大きらいな霊柩自動車でブウブウですよ。」
これに荷風は答えている。
「あの飾りたてた自動車でブウブウやられたんではたまりませんよ。」
これもまた、思うようにはならなかった。葬儀の日、晴。飾り立てた霊柩車がその遺体を乗せて、ほんとうに多く集まった弔問客をブウブウ鳴らしながらかきわけてゆくのを、わたしは「サヨナラ」と呟きつつ深々と頭を下げて見送ったのである。