「禁酒と解禁と - 野間宏」中公文庫 私の酒 から

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「禁酒と解禁と - 野間宏」中公文庫 私の酒 から

一文を、私のなかの水系の流れるままに書こう。
酒は小説を書く私にとって欠くことの出来ないものであった。いま、ものであったなどと、私は書いたのだが、この過去形の、であったという言葉を書かなければならないところに、私の現在の大きな苦痛がある。大きな苦痛などと、大げさなことを言うなという声が、私の内からも、また外からもきこえてくるが、そのような声は、今は無視することにしよう。
四年ほど前、医師の精密な検査の結果、私は酒を禁じられた。長篇『青年の環』を完結してからのことである。この時、私の体重は、八十六キロだった。八十六キロという体重、この体重を身にそなえたまま経過するならば、おそらく、三、四年のうちに、あなたは、心臓にとりかえしのつかぬ、故障を起すこととなると考えられる。何故といって、この体重をもってあなたが歩くとき、あなたは、両手に、十五キロの荷物をさげて歩いていると同じだから。これが医師の忠告だった。そして私は、同時に酒をたつようにと言われたのである。
この医師の忠告は、じつにきびしいものであったが、心のこもったものだったので、私は心を決めそれを実行にうつした。私は計画をたてて、体重をへらすために必要なこと、一切をやりとげようと、試みた。しかし体重をへらすというのは、まことに困難なことだった。食事の内容を変えなければならない。蛋白質を十分とり、脂肪、でん粉の類をへらし、野菜を適当にとる。一日一時間は運動(私の場合は散歩である)をする。
ただそれだけのことでよいのだが、それはたちまち効果を収めるように見えた。私の体重は一カ月で三キログラム減った。しかし私の考えは、余りにも甘かった。次の一カ月で、私の体重は、もとにかえってしまったからである。体重の減量の困難なことを私はこのときから、身に徹して知らされなければならなかった。次の月に、私の体重は三キロへり、その次の月には、また、元に戻った。私はこのような状態をただ繰り返すだけで、私の計画の実現は少しもすすみはしなかった。まったく滑稽至極な、このような一年を私はすごした。そして一年後、私は絶食する方法をとって、一挙に二十二キロの減量に成功した。
とはいえ、私はただ減量に成功しただけであって、私は私の体力をまったく失ってしまったことを知らされなければならなかった。私は、死のごく近くに自分がいることを感じとっていた。私は細々と生きていたのである。私は家のなかにとじこもり、外へでることが出来なかった。私の外出は病院に行くときに限られていた。そして私は、禁酒の解けるのを待ったが、その日はなかなか、やってこなかった。もっとも、この当時、私は小説を書く力を失い、したがって小説家ではなかったので、酒は私にとって欠くことのできないものだ、などと言い切る資格をもっていなかったのかもしれない。
小説を書くものにとって、酒は欠かすことのできないものだという、私の主張の根拠は、酒は忘却をもたらしてくれるというところにある。何等かの形で意識のなかに刻まれているものを忘れ去ることがなければ、真の創造はもたらされることはないではないか。これが酒が小説を書くものにとって、欠かすことのできないものであるという、理論的な理由である。小説作品は、作家の意識を越えたところに形成されるのである。忘却は意識の喪失である。しかしこのようなところで、創作理論としての忘却論などは、やめることにしよう。
私は現在、寝る前に少量のウイスキーを飲む。自宅ではこれをいまもまもっている、と一応言うことができる。一年半ほど前に、私はこの許可を得ることができた。私は喜んだ。じつに大きな喜びだった。私はその少量のウイスキーを時間をかけて飲んだ。ウイスキーは格別の力を発揮した。寝る前に飲む睡眠薬の量は、半分にへった。ウイスキーの味は、かつて味わったことのないほどのものとなった。しかしこの少量という限度をまもることは、人間にとって、また困難なことなのである。
限度を越えるとき、私はたちまちにして体調を失った。私の仕事は、停滞する。大きな恐怖が私をたたきのめす。しかし、この限度は、少しずつ拡大されているといってよい。雑誌の座談会などに出席する時には、その日の調子によって、午後四時、或は六時頃にはビールまたはワインを飲むなどということもある。座談会に出て一人前に喋るには、アルコールなしで、言葉を出すなどということはこの私にはいたってむつかしいことである。とはいえ、少しずつ飲みだすと、全身の調子が、変ってきて、その帰りに、時にバーや飲み屋などに立ち寄るとたちまち飲みすぎることとなる。翌日は再び立上がること不可能という以前のような状態におち込んでしまったのではないかと、一とき、しょう然として、部屋に身を横たえていることがある。幸いにして、その翌日には、少し気力をとりもどし、翌々日にはようやくにしてではあるが仕事にとりかかることが出来るようにはなった。
四年前にくらべると、私の身体の回復はかなり、すすんでいるといってよいだろう。しかしいまなお、私は病院の薬から完全に解放された身ではない。少し奇妙というべき平凡にして、しかも酒を思いのままに飲むことの出来ないという、恐ろしい日々を、私は過ごしている。私のうちに戦争と酒と性のかかわりについて一寸した渦のように書こうと考えていたのだが、それは他日のことにしよう。