3/3「解禁する - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

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3/3「解禁する - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

ヘンリー・ミラーはある文章で、禁圧時代の作家たちが、♀のことをもっぱら比喩で表現し、“薔薇の花の芯”だの“蜂蜜の壺”だのとまわりくどいことを書くのは“偽善”である。どうしてズバリ、OMANKOと書かないのかといって腹をたてている。彼はこの“偽善”に抵抗して自説のままを自作に展開してみせたわけだが、私にいわせるとこれは半ば正しく、半ば正しくない。私の知人に丸谷才一というたいそう博識、公平、かつ率直な鑑定家がいるが、彼にいわせると、チャタレイ裁判なるものは煮つめていくと、トドのつまり、OMANKOだのMARAだのという四ッ文字ことばを公認するか否かという一点に尽きるのだそうである。こうしい端的な議論と指摘は現実を直視しているので私は好きなのだが、さて、四ッ文字ことばがおおっぴらに手をふって印刷されるようになると、さきのコペンのポルノ・ショップとおなじことになりはしまいかとも思う。
社会習慣としてのこの禁忌が解禁されて、誰でも彼でもが平然としてOMANKOがどうの、MARAがどうのと口にするようになり、書かれるようになり、そして誰もモゾモゾしたり、コソコソしたりすることがなくなるようになると、かえって荒寥としてくるのではあるまいかと思うのである。あちらこちらにそれが氾濫してくると、かえって、昔、“薔薇の芯”だの“蜂蜜の壺”だのとまわりくどいそれゆえ熱さをこめてささやきあっていた偽善がなつかしく奥深いものに感知されるかもしれないのである。ことばを考える工夫にふけっていた熱さや思慮のこまかさが優雅な成熟としてふりかえりたくなるかもしれないのである。そういうことが偽善なのではなくて、じつは高い意味でのことばの遊びなのであったということに気がつくようになる。性は食とおなじほどに根源的なものなのだから、広大さと豊沃さを何とか工夫してあたえ、培養しておかなければならないものだが、そうなると誰も無影燈のしたで食事するよりは、ほの暗く、ほのあたたかいキャンドル・ライトで食事をしたがるというのと、おなじ原理が、こっそりと匿名のうちに作用してくる。OMANKOだの、MARAだのといくら口にしてもよい自由は確保しなければならないのだが、しかし、誰もそれを口にするものはないという状態が望ましいのである。ヘンリー・ミラーが“薔薇の芯”と書かないで、ズバリ、“カント”と書いたときは身辺に禁忌が窒息的なまでに充満していたからで、彼がそう書くときにこめた熱中は反逆のそれなのであり、習慣としてのそれではなかったことに留意しなければならない。習慣になれば、これはおぞましいかぎりのものとなる。ヘンリー・ミラーの“カント”を、それが書かれた時代に読んだ感動と、何もかもがオープンになりつつある現在の感触で読む感動とでは、まったく違ったものがあるはずである。すべての禁忌が後代になってはただ不可解としか感知されないのとおなじことである。

あらゆる指導者、あらゆる為政者は、古来、どれくらい性表現をタブーとしてきたことか。そのためどんなに美しく、また、清純、また、厳格と見えるスローガンを掲げてきたことか。しかし、こと表現の自由については、これまでのところ、史上もっとも革命的な政府はレーニンのそれでもなければ、毛沢東のそれでもなく、ホー・チ・ミンのそれでもない。デンマーク政府である。“革命なき革命を”という名句を編みだしたのは第二次大戦後のイギリスの労働党だが、デンマーク政府はおおげさなことは何も口にしないで、どんな革命の指導者も頭から禁止してしまうことしか考えなかったことを、平然として人民に許したのである。
それでいて、その結果、デンマークにはべつに何事も発生しなかった。フリー・セックスを認め、ポルノを認め、いっさいがっさい人民に公然と大股開きをすることを認めたのだが、だからといってその社会に流血や叛乱や解体は何ひとつとして発生しなかったのである。むしろ、ポルノ屋は夢中になって工夫と開発に没頭した結果、誰も何もいわないのに自分から自粛するよりほかないということになったのである。幽霊の招待見たり枯尾花というところか。
しかも、この史上もっても革命的であったデンマーク政府の首相や大臣の名前を誰に聞いても知らないというし、私自身も知ろうとしたことがない。かつてそうしようとしたことがなかったし、いまもそうしようと思っていない。これまでの永い永い禁忌の歳月のあいだにどれだけ多くの英才や奇才がこのために迫害されて散っていったかを考えあわせると、いったい歴史とは何なのだろうかと、数万回繰りかえした問いをあらためてもう一度繰りかえしたくなってくる。人間はざんねんなことに、また、奇妙なことに、根源的に相反併存の動物であって、何かを得れば何かを失うということを際限もなく繰りかえしてきたし、いまも繰りかえしつつあり、ときにはそのために屍山血河[しざんけつが]、眼も口もあけていられないような腐臭のなかでいったりきたりしている。そのあげく手に入れるものは、熱狂がおさまってしばらくたってからふりかえってみると、それが手に入れられなくて七転八倒していたときと本質においてさほど大差ないといいたくなるようなものばかりである。どうなるのだろうと問い、べつにどうッてことはないのだろうとつぶやき、けれどそれでも満足できるわけではなく、また問い、またつぶやき....