1/2「総料理長 田中健一郎 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

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1/2「総料理長 田中健一郎 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

電車とヘラブナ釣りが生む傑作メニュー

総料理長田中健一郎さんが、帝国ホテルに入ることになる発端は、一九五八年(昭和三十三年)頃の「きょうの料理」(NHK)というテレビ番組に映った、ふくよかで白い帽子をかぶり、大きなひげをたくわえてにこにこ笑っていたひとりの男への少年らしいあこがれだった。その人が、当時の帝国ホテルの料理長であった村上信夫氏だった。ただ、少年は帝国ホテルの料理長というより、村上信夫氏のインパクトの強い“洋食のコックさん”のイメージに惹かれたという。
田中少年は、一九五〇年に浅草のかばん問屋の長男として生まれた。父母がともに夜遅くまで仕事をしていたせいで、妹二人のための食事づくりをしたというが、もともと料理することが好きなタイプだった。父は、長男が親の仕事を継いでくれると信じていたが、田中少年は中学卒業の前あたりで、すでに料理の道という自らの進路を決めていた。
高校卒業後に帝国ホテルに入社してからは、従業員食堂の仕事、“鍋屋”と呼ばれる鍋洗いから、野菜洗い、スープ屋さん、朝食屋さんなどの下積みをひと通り体験し、その後レストラン調理、宴会調理、上高地帝国ホテルの仕事を経験していった。
ただ、田中さんには帝国ホテルに入社したという自覚より、帝国ホテルの料理人になったという気持が強かったそうだ。私も、出版社である中央公論社に入社したとき、中央公論社の社員というよりも、中央公論社の編集者になったという気分があった。編集者も会社員というよりどちらかといえば職人気質の濃い仕事だが、料理人を目指すとなれば、さらに強い職人意識を抱いていたことだろうと、田中さんの気持にうなずくものを感じた。
田中さんが入社した翌年の一九七〇年に、帝国ホテルの本館が建った。そのために旧館の建物をこわしてから、本館が建つまでのあいだ、将来的に有望と見込まれた料理人が大使館に出向していたが、彼らが本館が建ったのをきっかけに帰って来た。入社一年目で、優秀なシェフたちに出会えたのは、自分にとって幸運だったと田中さんはふり返る。
一九七〇年代の半ばあたりから、フランスにヌーベルキュイジーヌという新しい料理のウェーブが生じ、フランス料理の古典的な料理法から素材主義へ....というながれがおこった。その頃、日本からかなりの数のシェフたちがフランスへ修業に行った。「シェ・イノ」の井上旭[のぼる]、「オー・シュヴァル・ブラン」の鎌田昭男、「ヴァンセーヌ」の酒井一之などの世代か、第一期だった。
その時代の留学は、飛行機ではなくシベリア鉄道経由で行った人が多かったという。現地に着いても、金がないため一日一個のフランスパンをかじってしのぐというケースもあった。そんな状況の中で、日本人はふつうの五分の一くらいの給料でやとわれても勤勉で真面目、泣きごとや不平不満を言わずによく働いた。そういう先輩たちのおかげで、料理修業の地盤が保たれた....と田中さんは強調する。
田中さんがフランス留学に旅立ったのは一九九七年のことだったが、そのほぼ一年という短い期間の体験が、料理人としての躯[からだ]の芯にしみ込んでいるという。フランス人の料理に対するモチベーションの高さ、情熱、厨房の清潔さへのこだわりなども、現場でつぶさに見とどけることができた。そして、国自体がフランス料理を尊敬する、料理は文化であるという精神の浸透ぶりなど、想像以上の奥深さに、田中さんは素直に圧倒された。
さらに、多種多様な客層をもつホテル・レストランというものの、スタンダードであることの重要性と、個性的な街のレストランとのあいだにある、くっきりとした境界線もまた、説得力をもって思い知らされた。そのようにして、料理の本場フランスで具体的にあるいは精神として学んだすべてが、田中健一郎の料理人としての基盤と、総料理長としての姿勢をつくり上げている。
だが、帰国後に田中さんを待っていたのは、三十人以上の先輩をふくめて四百人の料理人がいる職場の調理部長と料理長の兼任という役職だった。料理長は、コストに関係なくとにかくうまいものをつくる、いわばアーティストのような存在だ。そして調理部長は残業や従業員の数などをつねに頭に入れ、コストを最重要事と考える....つまりアーティストにブレーキをかける立場なのだ。この相反する二つの役割を、田中さんは約十年もこなしたという。
「この両方をやるんですから、ひどいもんですよ。まあ、もともと二重人格の性格があるからできたようなもんで....」
と、田中さんは苦笑していた。ただ、この矛盾する二つの立場のバランスを、自己流に保たねばならなかった時間の中で、田中さんの独特の個性にいよいよ磨きがかかっていったのではなかろうか。会議で経営状況について細々[こまごま]とクールに話した何分か後に、料理長として「うまい料理をつくれよ」と料理場にホットなはっぱをかけるのだから、思っただけで身も心も分裂してしまいそうだ。それを同時にこなす人がざらにいるはずもないが、なぜか田中さんには可能な感じがした。いや、田中さんはそういうふうに思わせる御仁なのだ。
田中さんは、帝国ホテルのスケジュールに入ったさまざまな食事会のメニューを、つねに頭に入れて時をすごしている。だが、一か月前から考えつづけても、まったくそのメニューがまとまらないまま、日にちが近づいてしまうこともある。それがあるとき、神田駅から東京駅までの電車のひと駅のわずかな時間の中で、「全部いっぺんにまとまっちゃった」ことがあった。しかもそれは、「かねてからこういう料理をつくりたかったんだ」と思うくらいの傑作メニューで、実際にお客さまにも大好評だったという。
それは、四十年の経験のつみかさねや、ひき出しとしての知識、それに感受性や瞬発力などが合体して、いちどきにほとばしり出たのだろう。このようなケースは一度ならずあって、「ロックが外れてバアーッと出るような」と、田中さんは表現していた。この感じは、もの書きの身として何となく分かるような気がした。問題は、ロックが外れたときほとばしり出るものが、いかに内側にたくわえられているかということなのだろう。