「競馬 群衆のなかの孤独 - 澁澤龍彦」ちくま文庫 わかっちゃいるけど、ギャンブル から

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「競馬 群衆のなかの孤独 - 澁澤龍彦ちくま文庫 わかっちゃいるけど、ギャンブル から

いささか大げさな言い方をすれば、わたしが人生の悲哀をはじめて知ったのは、競馬場においてであった。
七つか八つの頃、わたしは、父につれられて中山競馬場に行った。秋晴れの日曜日の午後であった。スタンドの高いところに、父とならんで腰をかけた。それから、父が馬券を買いに行き、わたしはひとりで待つことになった。「じきにもどるからね。待っておいで」と父は言い残した。
ところが、いつまで待っても、父がもどってこないのである。一時間たち、二時間たった。わたしは不安になった。いくつかのレースが始っては終り、しだいに昂奮する観衆の目の前を、赤や青の派手な装いをした騎手と馬が、流れるように走って過ぎた。わたしの周囲は沸きたち、どよめいた。歓声や罵声がとんだ。大人たちに取りまかれて、しょんぼりと涙ぐみ、木のベンチにすわっている少年に気がつく者は、ひとりもいなかった。群衆のなかの孤独を、わたしは小さな胸で噛みしめていた。
今の子どもだったら、こんなことぐらい、平気の平左だろう。わたしは、とりわけ弱虫だったのかもしれない。べつだん、父はわたしを試練にかけようと思ったのでもないらしかった。ただスタンドを間違えて、あらぬ方を捜していたのであったらしい。父が汗びっしょりになって、ようやくわたしの前に姿をあらわしたとき、わたしにとって、それまでの競馬場の孤独の雰囲気は、たちまち別のものに一変していた。- それだけの話である。
あれは昭和十一、二年ごろだったろうか。そうだとすれば、ちょうど支那事変のはじまった頃だ。それ以来、わたしは競馬場に一度も足を踏みいれたことがない。といえば、読者はたぶん、びっくりなさるだろう。わたしには、どうやら競馬コンプレックスができてしまったらしい。
少年のわたしには、競馬の馬の名前が、何より奇妙に思えて仕方がなかった。トキノホマレ。ケンクン。マツイサミ。- 記憶の底から、こんな名前が浮かびあがってくる。それはわたしの耳に、ふしぎな呪文のように響いた。



予想屋という商売がある。ノミ屋という商売がある。断っておくが、わたしの父は予想屋でもノミ屋でもなく、ただのホワイトカラーの銀行員だったが、死ぬまで大の競馬好きたであったから、いつも寝る前に、赤鉛筆で競馬新聞にしるしをつけていた。
賭事の種類にもいろいろあるが、大きく分ければ、習練や技術の要素の強い賭けと、予想の要素、つまり偶然の要素の強い賭けとがあるようにな気がする。しかし、どんな複雑な勝負でも、相手の手の中を読み、持ってくる札を読み、相手の出方を直感的に判じるわけだから、そこに予想の要素が全くないこともあるまい。予想、偶然、運の要素がなければ、そもそも賭事というものは成立しまい。
予想屋の元祖は、パスカルだろう。あるいは、「あれかこれか」のキルケゴールであるかもしれない。全国の競馬場の近くに、パスカル神社でも建てたらどんなものか。「幸運、運といった概念は、人間の心にとっては、つねに神聖という領域のきわめて近くにある概念である」とホイジンガー先生が御託宣を垂れている。
下位の力士が横綱大関を倒して金星、銀星などを挙げると、きまって、「マグレです。ええ、もう夢中でわかりませんでした」などという。じつに無責任みたいな妙な言葉だが、これも偶然、運というほどの意味であるらしい。すでに相撲界の慣用語となってしまった。
バルチック艦隊津軽海峡からやってくるか対馬海峡からやってくるか、東郷平八郎は、当時、あたかも予想屋の心境であったにちがいない。予想屋がいなければ、戦争もできないし、政治もできないわけだ。
中央気象台、あれも一種の予想屋である。医者、裁判官、これも一種の予想屋である。もっとも、競馬のそれと違って、こういう種類の予想屋が、信頼できる予想屋でないと、わたしたちは大いに迷惑する。地震の予想など、競馬なみの神経でやられてはたまらない。
とはいうものの、わたしたちすべての人間が、かなり下手糞な人生の予想屋であることに変りなかろう。
穴という言葉がある。要するに、番狂わせの勝負をさす。本命、対抗をねらわず、大穴をぶちあてるのが、勝負師の度胸というものであろう。
わたしが学生の頃から、サド侯爵という、今ではあんまり日本のフランス文学者の扱わなかった、十八世紀の作家を研究してきたのを見て、「きみは、うまい穴をねらったもんだねぇ」などと皮肉をいう、けしからぬ友人がいる。いくら親爺が競馬狂だったからって、わたしには、穴をねらったつもりは少しもないのだけれども、そういえば、学問の世界にも、ねらうべき穴はいくらでもあることだろう。



ダーク・ホースという言葉がある。実力のほどが分からない、無気味な存在をいう。政界にも財界にも、ダーク・ホースはいるだろう。職場のオフィスなどで、誰が彼女を射とめるか、というような議論の時まで、「あいつこそダーク・ホースだよ」などと、したり顔に予想する。
競馬の専門語や陰語が、これほど一般社会でよく用いられているということは、ホイジンガー先生の御託宣ではないが、やはり、人間文化が遊戯のなかに発生し、展開してきたことの一つの証拠ではなかろうか。