2/2「世捨人の文学 -車谷長吉」新潮文庫 百年目(新潮文庫編集部編) から

f:id:nprtheeconomistworld:20190825081034j:plain


2/2「世捨人の文学 -車谷長吉新潮文庫 百年目(新潮文庫編集部編) から

その点尾崎一雄の貧乏生活は、父から譲られた遺産の大半を野放図に「呑んでしまった」上でのものだった。そのゆくたてを尾崎は「暢気眼鏡」(新潮文庫)で次ぎのように書く。
《三年程一緒にゐた妻Eと、私に収入がないことから不和になり、加えて郷里[くに]の母との間の鬱積した関係が極度に達した時、何もかもが面倒になつて私は不意にN市へ走った。N市には私の尊敬する藝術家が居るのだ。N市へ行ってその人の顔を見、声を聞いたら切れそうな呼吸[いき]も落ち付かう、ただそれだけの望みしかなかつた。(中略)私は父が早死した家の長男で、老いた母と三人の弟妹を世話しなければならぬ身の上なのだ。家計のやり方に就て母から不服を云はれ、言はれて見て自分も悪い点を認めたが、母がそれのみを責めたことから私はつむじを曲げた。そして現実に家の経済は破局に近付き、それを捨て置いてのN行だった。(中略)
私に母や弟妹を捨てさせ、妻を去らしめたのは直接には金の問題だが、根本は私が小説を好くことにある。私としては普通の世渡りの成り難い程元来偉くも莫迦[ばか]でもないと密かに思ってゐるのだが、いつか小説好くことの深みに陥り、父の遺産が無くなつて気付いた時は遅かつたのだ。世を渡る術[すべ]の足場は全[まる]で失ひ、余裕あるころその方向への心構へは捨てて顧みなかつた故、あらゆる意味の空手で、追はれも走る気力のない野良犬、先ずそんなものだ。一人になつた時、それでいいと思つた。もとよりなかなか気に入つたものが書けるとは思はず、書けてもそれで世間並にやつて行く望のないことは前からの覚悟故、自分一人で困つてゐれは済むと気楽だつた。》
ところが、このおとこはそういう貧乏生活のさ中にあって、ふたたび結婚するのである。相手は愛称「芳兵衛」と称ばれる、破天荒に天真爛漫な、若い女だった。当然、その女が子を孕む。そうなれば男は妻の出産費用その他で、金の工面に困惑する。
《私は余り恐いものがなくなつた。只面倒な事が一倍嫌ひになつただけだ。それ故、何事も「ままよ」と直ぐ最悪の場合を予想し「いつでも来い」と身構へもせず寝そべつてゐる。前書いた郷里の家との反目も、前の妻との絶縁も、その気持から、事の重さに比し割に手軽にやつてのけた。さう云う私だが、ひどい生活に不平も云はず、私だけをたよりにしてゐる芳枝を思ふと、流石に気が滅入るのだつた。つべこべ云ふ相手には、正面から何でも云つて了[しま]へる。「私はこれから人非人になる」母にさう云つた。が、無力な、柔順な相手には、それが出来ないのだ。》
つまり、「暢気眼鏡」は典型的な貧乏文士の困窮物語である。尾崎一雄が昭和八年十二月、この私[わたくし]小説を「人物評論」に発表すると、尾崎士郎は読売新聞文藝時評で激賞し、「文士は霞を喰うて生きるべし。」と書いた。
が、こうして作家的出発をした尾崎も、昭和十九年八月三十日、胃潰瘍の吐血で大出血をし、昏倒すると、妻子[つまこ]を連れて、古里・神奈川県足柄下郡下曾我村大字谷津の生家へ帰る。父から譲られた遺産の大半を使い果たしていたとは言え、東京で病気になれは「逃げて帰る家。」だけは確保してあったのだ。
併しそれからが、尾崎一雄が文学者の本領を発揮した時代となった。言わば、もうあとには一歩も退けない崖ッ淵に立たされたのだ。蟋蟀、蜘蛛、蝿、蟷螂、蜂、蛇など、さまざまな虫たちの観察や、花、玉樟、庭の石、苔などの世話、雑草の草むしり、天体観測等を通じて、身の周りの自然とじかに接触し、そこから人の生死の宇宙論的な命題を考察するという、他に類を見ない卓抜な短篇小説を数多く物したのである。すなわち「虫のいろいろ」「石」「松風」「蜜蜂が降る」「かまきりと蜘蛛」「玉樟」「ハレー彗星」などが、それである。「石」(岩波文庫「暢気眼鏡・虫のいろいろ」所収)から、次ぎの一説を引く。
《さういへば、石にも、死に石と生き石とがあるのださうだ。私のところの墓を整備してくれた石屋がさういつた。私は四、五年前、何となくさうして置いた方がいいやうな気がして、墓地に石の垣をめぐらし、先祖代々の墓といふのをつくつた。その墓石を刻んだ石屋がいつた。
「これを彫るには苦労しました。何しろ、筆のかすれまで正確にやれといふ注文なんだから」
私は、友人の書家に、字を書いてもらつたのだが、その友人は、自分から石屋に出かけて、いろいろやかましいことをいつたらしい。
「おかげでよく出来ましたよ」
「それに、この石は死に石だからね」と石屋がいつたので、死に石とは、と反問した。そんな言葉を初めて聞いたからだ。
- 山から掘り出して間の無い石は生きてゐる、さふいふのには、ネバリがあるから、彫り易い、山から出て日の経つた石は死んでゐる。脆くてカケ易いから、仕事に骨が折れる、生き石死に石といつて、われわれにとつては大事なことだ、と石屋は語つた。
そのことを憶[おも]ひ出した。
「こいつら、大体死に石だな」と思ひながら、あたりにころがつてゐる石を見た。》
 
うちの嫁はん(高橋順子)は、いまは詩を書いているが、昔は青土社編輯部[へんしゆうぶ]にいて、他人の詩集を作っていた。昭和五十七年、吉行理恵編「猫の国ったら猫だらけ」という猫詩のアンソロジーを作ったとき、吉行と親しくなった。うちの玄関の下駄箱の上に、去年の夏、私が直木賞をもらった時、高橋義夫からお祝いにいただいた、山形県の平清水焼[ひらしみずやき]・青龍窯[せいりゆうよう]の白い丸い花瓶がおいてあるが、その花瓶の敷物の紺の布は、嫁はんが吉行から贈られたものである。猫の絵が織ってある。この敷物をいただいた頃は、よく手紙ももらっていたのだそうだ。
ところが、嫁はんと私が結婚した平成五年以降は、吉行からはぱたりと音信が途絶えてしまった。私と所帯を持った時、嫁はんは四十九歳だった。吉行はそれより年上である。以前は、高齢高学歴独身女性同志のよしみで、親しくしていたのだが、一方の女に男(つまり、私)が喰っ付いたので「男嫌い」の吉行としては、何か許せないものを感じたのかも知れない。
吉行理恵に「男嫌い」(新潮文庫)という連作短篇小説集がある。男をはッとさせるような本の名だ。この題名からも分かる通り、吉行もまた世捨ての生活をしてきた人である。人も知る通り、吉行理恵の父は戦前の小説家・吉行ケイスケ、母は日本美容師界の草分け・吉行あぐり女史、兄は小説家・吉行淳之介、姉は女優・吉行和子である。このような家族構成の中にあって、理恵は美しい姉・和子に容貌の点で引け目を感じ、後家の踏ん張りの母に経済力があるところから、親の家に同居していれば喰うに困らず、従って年が来ても嫁には行かず、「猫の餌代にしかならない。」詩と小説を書いて暮して来た。
吉行の「男嫌い」を読むと、この人は他人の悪意に対して極端に敏感な人であることがよく分かる。
《姉が帰ってしまうと、冴[さえ]は古びた買い物籠を抱えて、郵便局に出掛ける。(中略)切手売場に並んでいると、若い男が冴の前に出ようとした。冴がちらっと視ると、後ろに戻ったが、イライラしている気持が伝わってくる。
肉屋では、あとから来た三、四人の人たちに先を越された。人がいなくなったので、冴は、
「鶏レバー二百グラム下さい」
と言う。店員は冴を無視して、隣の窓口に今来たばかりの若い女に訊ねた。
「奥さん、なんにしますか」(中略)
- ひどいわ。あんまりだわ。あんなに大きな声で言ったのに聞こえなかったのかしら。私の番なのに。買うのやめようかしら。でも、猫に食べさせなければ。
別の店員が近づいて来て、
「お婆さん、鶏レバー二百だったね」(中略)
- やっぱり聞こえていたをだわ。冴は無視した店員を睨みつけた。店員は知らん顔している。(「寂しい狂い猫」)
この他人の悪意に対して極端に鋭敏な性癖は、「男嫌い」と言うよりも、寧ろ「人間嫌い」と言った方がよいのかも知れない。

以上、永井荷風尾崎一雄吉行理恵の小説について、世捨人の精神の姿を見て来たが、世捨人の文学とは、贅沢さえしなければ、最小限喰うて行くには困らない金や家があること、つまり世俗のただ中へ出て働く必要のないこと、知的センスがあること、無常観というようなものがその底にあることなどが特徴として挙げられる。これはいにしえの世捨人・西行吉田兼好などにも通ずる条件である。
私は若い時分から西行を心に留めながら、金も住む処もなかったことが原因して、常に世俗の中で働きながら文章を書いて来た。つまり「贋世捨人」としてしか生きて来れなかった。

(「波」平成十二年一月号)