「犬のいる風景 - 五木寛之」集英社文庫 地図のない旅 から

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「犬のいる風景 - 五木寛之集英社文庫 地図のない旅 から

犬に階級的偏見があることを発見したのは、最近の大きな収穫であった。
私の家には妙な犬が一匹いて、この犬の習性をじっと観察していると思いがけない、いろんな発見があって面白い。犬の階級的偏見というやつもそのひとつである。
犬の名前は、パピーという。ラテン語パピルスからとった、というのは嘘であって、何でもいいから呼びやすい音をくっつけただけである。白い、薄よごれた小型犬で、とぼけた愛嬌のあるつら構えをしている。手入れをしないためか、頭からしっぽまであっちこっちに毛玉ができて、すこぶる珍なる風情だ。風呂にでも入れて洗ってやればいいのだが、そうはいかぬ。なにしろ飼い主の私自身がもう半年ちかく頭を洗ったことがないのに、犬だけ洗うというのも筋の通らない話ではないか。したがって名犬パピーも永久にフェルト状の塊のままだ。
この犬が客好きで、玄関のベルの音がすると、足がもつれそうに喜んで飛んで行く。そして客の足もとにじゃれたり、妙な甘え声を立てたりして、接待に相勤めている。それはいいのだが、客の職業によってその対応がちがうので困ってしまうのだ。
ネクタイをしめている客だと、しっぽを振って大歓迎である。これがジャンパー姿に下駄ばきだったり、ガス工事の職人さんだったりすると低い唸り声を立てながら、上目づかいにあとずさりしたりする。一体に頭脳労働者に対しては低姿勢で、筋肉労働者に向かって態度がよろしくないようだ。ブルジョア風の客に対しては好意的であり、勤労階級に向かって敵意を示すというのは、これは反革命的であり、保守反動以外の何ものでもあるまい。
「犬はその家の飼い主に似るというが、おれたちは来客をその属する階級によって差別したことがあるだろうか」
と、過日、思い余って私は配偶者にたずねてみた。
「そんなことはないでしょう。最近は出前もってきてくれる人とか、工事の職人さんなんかには、もう、可能な限り丁重な態度で接しているはずだわ、あたしたち」
「しかし、表面的にはそのように対していても、内心ではチェッと思っているとか - 」
「どういたしまして。あたしがチェッと思うのはネクタイをしめた紳士ふうの人に多いわ。あなたこそプロレタリアートに対して隠された偏見をいだいてらっしゃるんじゃないの?」
「じゃあ、うちの犬の態度が客の風態によって違うというのは、一体どういうわけなんだ。」
「そんなことあたしにおききになっても無理よ。あたしは犬じゃないんですもの」
「しかし - 」
「しかし、何ですか」
真実を語ることは時として家庭の平和に対する重大な危機となることもありうる。私は口の中でつぶやきかけた言葉をあわてて飲み込んでしまった。
本当のことをいおう。諸君、細君というやつは実は犬なのだ。いや、犬ではないが犬に似た存在らしいのである。私はその事実をある同年輩の小説家に知らされたばかりなのであった。
その小説家は、無口な男である。無口であるから時たまもらす言葉が千鈞[せんきん]の重みを持つというのも理の当然だ。九州の田舎では、男は日に三言、などというではないか。
その彼、曰く。
「細君というのは犬に似ているな」
「なぜ?」
「ほら、やたらと主人と遊びたがるじゃないか」
「うーむ。なるほど」
この感じがわかる男は恋愛結婚、もしくはうんと若い細君をもらっている人物であろう。学生結婚、職場結婚をなさった方なら、なおよく理解できるかもしれない。
私は私の配偶者と同じ教室で学んだ過去を持っている。したがって遊ぶ時も一緒だった。彼女は私が麻雀をやる時はノコノコついてきて仲間に加わり、私が競馬にこり出すとたちまち私以上に熱中するようになった。私の友人は、ほとんど彼女の友人であり、私がアルバイトで苦しんでいる時は、彼女が半分手伝ってくれたりもした。映画も一緒に見たし、マンボも踊った。質屋へも一緒に行き、デモにも加わった。酒は私より強く、私がはじめて日本脱出を企てた時も、なぜか一緒にいた。
したがって、世の細君がたのように、主人が何か楽しくやっているのを独り時計をながめつつ、レースを編んではほどき、ほどいては編みして待ちわびるという習慣がない。そんなふいだから、いつまでも主人から乳離れしないのである。すなわち、とかく主人と遊びたがる、のである。
女房は犬に似ている、というのはそこの所を実にうまくユーモラスに表現している名言だと思うのだ。もし思わないとすれば、それは猫に似た夫人をお持ちの方であろう。犬は主人につくが、猫は家につくものなのである。亭主が家出をしてしまっても、でんと家に居すわっているタイプのヨメさんがいるものだ。私はどちらかといえば、一緒に家出をしてくれる犬型のほうに親しみを感じているのだが。
ネクタイをしめていない種族で、私のところの犬に尊敬される唯一の存在が編集者である。締切りの迫っている担当者ほど、パピーは丁重に対しているようだ。もうとっくに締切りを過ぎ、印刷所から直行してくる編集者ともなると、犬も非常に細かく神経をつかって対しているのがわかる。
まず原稿がおくれているわけを私が説明する。隣で目を伏せて、犬、ではない配偶者が頭をさげている。その横で尾をたれ、耳をつぼめてうつむいているのがわが愛しの名犬パピーである。昨日など、ふとふり返ると、たしかにそのつぶらな目に涙さえ浮べていた。
どうやら犬には偏見もあるが、想像力もそなわっているらしい。この原稿の出来具合を、いま横で心配そうに二匹がながめている。

(一九七一年一月)