「江戸の坂 - 横関英一」中公文庫江戸の坂東京の坂 から

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「江戸の坂 - 横関英一」中公文庫江戸の坂東京の坂 から

江戸の坂とは、江戸時代に江戸にあった坂で、もちろん名前を持っていた坂を言うのである。江戸の坂には、江戸の庶民が名前をつけたのである。江戸っ子が名前をつけたのである。だから、その名は江戸っ子気質そのままで、単純明快、即興的で要領よく、理屈がなくて、しかもしゃれっ気があふれている。
坂の上から富士が見えれば富士見坂と名づける。海が見えれば潮見坂と呼ぶ。新しくできた坂ならすぐに新坂とよんでしまう。大きな坂は大坂で、坂と坂との中間の坂は中坂と名づける。樹木などの繁って薄暗い坂は、暗闇坂、急な坂は胸突坂、墓地のそばの坂は幽霊坂にきまっていた。それからそばに芥[ごみ]捨て場があるような坂は芥坂[ごみざか]と言い、同様に射撃練習場のあるような坂は鉄砲坂と呼んだのである。また、段々の坂は雁木坂[がんぎざか]または梯子坂[はしござか]と名づけた。お寺のそばの坂には、そのお寺の名をつけ、お宮のそばの坂には、そのお宮の名をかむらせる。そこに、八幡さまがあれば八幡坂、お稲荷さまがあれば稲荷坂と名づける。天神社ならば天神坂、氷川社ならば氷川坂と呼ぶ。さらに気どって、銀杏稲荷のそばの坂は、稲荷坂と言わないで銀杏坂と呼ぶ。朝日天神、牛天神のそばの坂も天神坂を捨てて、朝日坂、牛坂と命名する。
いつの世にも偉人を崇拝するのは民衆の常ではあるが、特に江戸っ子には、この気質がはげしくはたらく。有名な人々の邸宅付近の坂に、その名がかぶせられているのは当然である。
渡辺綱にゆかりのあるところの坂は、綱坂または渡辺坂(港区芝三田の慶応大学裏門前の坂)と名づけた。紀州邸のそばの坂は紀伊国坂、松平摂津守の屋敷の前の坂は、津の守坂、三宅土佐守は三宅坂紀州尾州・井伊三邸のそばの坂は、ひっくるめて紀尾井坂と呼ばれた。さらに、しゃれたところでは、岡部・安部・渡辺の三大名の屋敷のそばの坂は、岡部のべ、安部のべ渡辺のべの三つのべを強調して、三べ坂と呼んだ。
もし、坂の付近に目ぼしいものがないと、そこらあたりの樹木、鳥獣なんでもござれと、片ッぱしから借りてくるのである。冬青木坂[もちのきざか]、茶の木坂、グミ坂[難漢字]、柘榴坂、狸坂、狐坂、蛇坂、蛙坂、螢坂、芋坂、乞食坂.....こんなぐあいにすこぶる自由奔放であった。
それのみならず、あやしげな伝説、挿話、事件など、およそ耳目に触れるものはなんでも採ってきて、すぐにその坂の名にすることができた。しかも明朗直載で、なかなかうまい名前を持った坂が、東京の各所に現存する。しかし、彼らの単純無造作の命名法は、ややもすると、マンネリズムに陥りやすく、江戸中のいたるところに、たくさんの同名の坂をつくってしまったのである(新坂一八、富士見坂一五、暗闇坂一二、稲荷坂九、中坂八、汐見坂八、幽霊坂八、禿坂七、芥坂七、清水坂七、大坂六、不動坂六)。
このように、江戸の坂は江戸の民衆によって名づけられたのであるが、まれには将軍の命名したと伝えられるものもいくつかあった。牛込のユレイ坂は徳川秀忠、それから湯島の昌平坂は、徳川綱吉命名だと言われる。今の牛込若宮町の若宮神社付近に、当時有名な梅林があって、秀忠はこれを大いに賞賛した。その梅林のところへ上って行く坂を、ユレイ坂と名づけたのであるが、ユレイというのは、中国の有名な梅の名所であった。昌平坂のほうは、ご存じのとおり聖堂のそばの坂なので、孔子の故郷の地名を採って命名されたものである。ともにすこぶる高踏的な、気どったものであったが、江戸っ子たちにはあまり歓迎された名前ではなかったとみえて、いつの間にか、これらの坂を、別の名で呼んでいたようである。すなわち、ユレイ坂はゆうれい坂昌平坂は団子坂と、ただし、この昌平坂は、後で触れるように、初めの昌平坂ではなく、二度目の昌平坂のことである。