「桂離宮 - 野上豊一郎」岩波文庫 日本近代随筆選2から

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桂離宮 - 野上豊一郎」岩波文庫 日本近代随筆選2から

障子の影

桂離宮の書院から庭に面して、折れまがりに小さい三つの部屋が一ノ間・二ノ間・三ノ間とつづいている。
その一ノ間の障子に、折からの小春の西日があかるくさしていた。
障子は、左右が半間[げん]ずつの板戸に仕切られ、腰板のないのが二枚、つつましやかに、ものしずかに並んで、昼間もほのぐらさのただよっている部屋の中へ無遠慮に押し入ろうとする強烈な日光を、方六尺の白紙に遮り止めていた。その正方形の窓 - それがどうして窓でないと云えよう - の右上から左下へかけて、対角線を引いて、下半分が青黒い蔭になっていた。それはこの部屋につづく隣りの建物の屋根の影であった。また正方形の上部の一辺に接して、この部屋の廂[ひさし]の瓦の影が、粗い波形を描いて縁[ふち]どっていた。
私たちはその予期しなかった白と黒の幾何学的影像の前に来て、はたと足を留めた。和辻君は、この部屋の障子に腰のないのは、この日影の効果を予想しての小堀遠州の考案ではあるまいか、と云った。私は、そうだね、と云って考えた。
私たちの訪問は大正十五年十一月八日午後三時ごろだった。
その時、私のあたまの中では、秋の日ざしと、冬の日ざしと、春の日ざしと、夏の日ざしのことが比較された。それから午後の太陽の角度と午後の太陽の角度のことが比較された。それから、晴れた日と、曇った日と、雨の日のことが比較された。それから......
併し、百の弁証の与件も何になろう。現に私たちの目の前には、恐らくいかなる美術家も想像し得ないであろうほどの、独創的な、印象的な、すばらしい図案が、二枚の障子の上に描き出されてあるではないか。そう私は思った。その考案者は小堀遠州であったか。それとも、太陽を動かしている自然であるか。それを、その場合、咄嗟にきめることはできなかった。けれども、私たちの前に一つのすばらしい美術品があったことだけは事実である。
書院から泉水を隔てて約二百メイトルの小山に立つ松琴亭の床の間には、白と青の方形の加賀奉書が大きな市松模様に貼られてあった。その大胆不敵な手法を、今一つ思いきって更に大胆不敵に、而[し]かも断えず動く日光を素材にしての手法は、たといそれが一年のうちの或る限られた時刻のものであるとしても、どうしてそれが小堀遠州の創意でないという証明がつけられ得ようか。
- この感想の寓意は、芸術はどの時代のものでもわれわれの見る瞬間に於いてのみ感じ得るものだ、ということである。

賞花亭

松琴亭から山道を辿って、蛍谷の孟宗竹を左手に見おろしながら月見台へ出ると、その傍に一つの異風な亭が立っている。賞花亭と名に呼ばれれば、桂の離宮の一景物らしくも聞こえるが、以前は紺と白の染分の暖簾の「たつた屋」と書いたのが軒に垂れていたという。ことほど左様に、ひなびて、下世話にくだけた、どこか古駅の茶店といったような感じのする建物である。
そこに腰をおろして向を見わたすと、昔は庭木の梢を越して遠く嵐山の桜が眺められたそうだ。亭の名はそこから来たのである。しかるに、今では、前方の三御殿のうしろの樹木が高く伸び繁って、眺望は全く遮断されている。
そのことを、東京に帰って謙斎先生に話したら、賞花亭だけではありませんよ、一体にあの離宮の庭木は皆伸び過ぎている、と云われて、女松山の女松の話をされた。それは書院から松琴亭の方へ池づたいに行く左手の丘陵で、今日ではただ一本の大きな赤松が釣合のとれないほどに高く聳[そば]えているきりであるが、昔はは丘陵の上に程よい大きさの赤松が一面にむらだち繁って、それに吹き入る風の音と、その下の落口の音が合して、琴の音色にきこえたという。女松山の下の汀[みぎわ]に立って、澄み透った池水の底の、灰色の泥の上に、川蜷[かわにな]のような細い貝が縦横に痕を残して這いまわっているのを見て居ると、旅に出てのどかな長汀曲浦[ちょうていきょくほ]にさしかかった時のような気持にはなれるが、なるほど、其処には、あってよさそうな松原はもはやなく、ただ一本のべらほうに大きく伸びた赤松があるきりだったのは、周囲の調和配合の上から見て、たしかに間がぬけていた。
遠州の設計でこの庭の造られたのは天正十九年だと云われている。それから三世紀を経過した今日までの庭の変遷のことを私は考えて見た。年がたてば伸びたでもあろうし、時期が来れば枯れたでもあろう。それには刈込もされたであろうし、植替もされたであろう。もともと生きた植物のことであるから、不断に変化が行われて、初めに設計された意匠が今日どの程度まで保存されてあるか、全然見当がつかない。娯[たのし]まれていた嵐山の眺望が失われたのは、その一つのいちじるしい実例に過ぎない。今後更にどれだけの甚しい変化が生じないものか、誰に保証ができよう。
位置を変えない植物について考えてもそうである。動く人間の体躯を素材とする舞台芸術のことなどを考えて見ると、昔から厳格に伝えられている筈の型などというものも、はなはだ心もとなく感じられる。伎楽[ぎがく]は千年の昔すでに消えて無くなっていた。舞楽は今日なお形ばかりは残っているけれども、それは霊魂の抜け去った美しい屍骸に過ぎない。能楽はまだわれわれの手の中にあるけれども、併しそれは世阿弥能楽ではない。否、秀吉や家康を喜ばした能楽でさえもない。もっと新らしい歌舞伎ですらも、元禄・化政のおもかげをそれに求めることは絶対に不可能である。舞踊・音楽だけではない。絵画・彫刻・建築、すべて時の変化を蒙らないですむものはない。なんぞひとり桂の離宮の移り行く姿を嘆くを要せんやである。
- 寓意。芸術はその作られた時に於いて最もよく生きている。

笑意軒

もう一つ、桂の離宮の思い出。
庭を一巡して、最後に笑意軒と銘を打った亭に辿りつく。遠州候の忘れ窓というので名を得ている茶席である。軒端[のきば]に近く、横に細長い窓が高く開[あ]いて、葛の捲[ま]きついた竹の格子が半分だけ未完成の形に残されてある。そういった洒落た気持は私にはどっとこなかったが、ただ一つ印象に残っているのは、この亭の後の窓の下がすぐに田圃になって、そこから田植を見物するために、離宮の周囲はすべて竹林になっているけれども、その部分だけは竹を植えないで、開けひろげてあったことである。そうしてその視野の範囲内の田圃はすべて御領地となっていたことである。
それについて思い出したのは、私の友人W君の本家がまだ退転しなかった頃、或る日、誘われてその目白の庭園を見に行った。以前の居住者T伯爵が宮内大臣をしていた時、木曽の御領林から切り出した檜材で建てたと噂されていた大きな寝殿造の建物なども見たが、そんなものよりも庭の方が私には興味があった。起伏の多い広大な地形が、巧みに、自然に利用されて、森々たる深山に分け入ったような感じを起させるように工夫されてあった。渓流が曲りくねっていたり、岩角がそれをおびやかしたりしていたりした。鹿の糞のようなものや、兎の糞のようなものが、ところどころ、草花の間にころがっていた。東京市内でありながら、どっちを見ても人家というものが殆んど見えなかった。ただ隣地の無隣庵の屋根が少しばかり木の間がくれに庭の一部分から見えるだけだった。地勢は江戸川の上流の方へ傾斜して、川に近く芭蕉庵なるものが建っていたが、それ等を引っくるめて、早稲田田圃の稲の穂波が、目もはるかに、ひろびろと見晴るかされた。その田圃の、目のとどくかぎりが、W家の所有地で、其処に、その頃東京の場末に殖えつつあった小さい見すぼらしいマッチ箱みたいな人家を建てさせないために買い取ったものだということであった。
併し、一市民たるW家の勢力では、やがて早稲田の奥の方まで市電が伸びるようになった時、庭園の眺望の第一の要点なる稲田の保存に対して、電気局の買収に抵抗することはできなかった。
- この話には寓意はない。