1/2「水と江戸時代が残る町-千住 - 川本三郎」ちくま文庫 私の東京町歩き から

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1/2「水と江戸時代が残る町-千住 - 川本三郎ちくま文庫 私の東京町歩き から

(一九八七・九『東京人』)

お化け煙突といえば、古い東京人なら誰もが懐しい思い出を持っているだろう。
たとえば昭和三年生まれの文学者・澁澤龍彦は、子どもの頃のお化け煙突の思い出をこんなふうに書いている。
「見る場所によって、一本にも、二本にも、三本にも、あるいは四本にも見えるお化け煙突は、東京の北のはずれに黒々とそそり立つ、不気味な何かのシンボルのように見えたものだった。私たちは滝野川の小学校から、よく歩いて上野公園あたりまで遠足に行ったものであるが、田端の高台から山手線に沿って日暮里、鴬谷と歩いてゆくと、眼界のひらけた左手の崖下のはるか遠くに、お化け煙突の姿はいつも見えている。私たちの行くところに、影のようについてくる感じで、何だか気味がわるいのである。」(『記憶の遠近法』)
お化け煙突は東京タワーが出来るずっと以前に、東京のランドマークの役割を果していた。とりわけ下町の人間たちにはこの煙突は強烈な印象を残したようで、たとえば、昭和十二年葛飾生まれのマンガ家・つげ義春は、『お化け煙突』という作品を書いているし、昭和十五年下谷万年町生まれの劇作家・唐十郎はこの煙突をモチーフに『お化け煙突物語』という戯曲を書いている。最近では北千住生まれの若いマンガ家・まつざきあけみが『北千住哀歌』のなかでお化け煙突を描いている。
高いだけでなく、見る位置によって本数が違って見えるこの煙突は、単に煙突という以上にお城や塔や大仏のように一種聖的な魅力を持った建造物だったのではないだろうか。
このお化け煙突は、正式には、東京電力の前身、東京電灯が大正十五年一月に建造した千住火力発電所の四本の煙突である。どれもレンガで出来ていて高さは八三・八二メートルもあった。四本の煙突は、二本の対角線がひとつは六二・二メートル、もうひとつは一〇・五メートルという極端な菱形に位置していたので、見る位置によって本数が違ってくるという面白い現象が生まれた。
唐十郎の『お化け煙突物語』のなかには下町の人間たちが、それぞれ自分の住んでいる町からは何本見えたかを懐しく思い出し合ういい場面があるが、そんな形でお化け煙突は彼らに場所的一体感を与えていたのだろう。
「お化け煙突を知っているか」「何本見えたか-」下町育ちの東京人たちにはそれが一種「合言葉」のように大事だったに違いない。
この煙突のことが広く知られるようになったのは昭和二十八年に、田中絹代上原謙主演で『煙突の見える場所』(五所平之助監督)という映画が作られたからである。椎名麟三の原作(『無邪気な人々』)では舞台は世田谷区になっていたが映画化にあたって視覚的、映像的に面白いところとお化け煙突の見える千住の荒川沿いが選ばれ、これが成功した。この映画のあと千住のお化け煙突は広く知られるようになった。
『煙突の見える場所』はしばらく忘れられていたが昨年テレビの深夜番組で放映され、さらに今年の春には三百人劇場でも上映されたので若い人たちもこれをずいぶん見たようだ。あのあとしばらく若い編集者たちとの酒の席でお化け煙突のことが話題になった。東京論ブーム、レトロブームはこんなところにもあらわれているのかなと思った。イラストレーターの安西水丸さんと対談したときにもお化け煙突のことですっかり盛り上がった。安西さんによると小津安二郎監督の『東京物語』にも、堀切あたりから見たお化け煙突が出てくるそうだ。これは私は気がつかなかった。
お化け煙突は、やがて古くなってしまい、昭和三十九年に取り壊された。
そのあとはいまどうなっているのだろうと思って、七月の暑い日、ひとりでカメラをぶらさげてお化け煙突跡を訪ねてみることにした。東京電力にもらった資料によると煙突は足立区千住桜木町にあった。
銀座から日比谷線の北千住まで行き、そこから歩くことにした。北千住は昔の宿場町の名残りが感じられる東京のなかの数少ない“昔し町”で時々、写真をとりに出かけるが、いつもは駅の周辺を歩くだけで日光街道を越えることはない。
大型トラックが勢いよく走る日光街道を越えると町は急に静かになる。銭湯・町工場・お婆さんが店番をしていそうなタバコ屋。路地のすまずみに庶民的な共同体がしっかりと残っている感じで他所者が歩くのは少し気がひける。東京では珍しくなった大衆芝居小屋・寿劇場はこの界隈にある。
千住中居町千住柳町・千住元町と小さな家が密集している町が続いている。元町とあるのはこのあたりが千住の草分けだったからだろうか。下町の特色のひとつは、銭湯が多いことと町工場の工員募集のビラが多いことだと思っているが、この界隈もその二つが目につく。日光街道を越えてすぐのところにはまるで城の天守閣のような大きな、趣きのある銭湯があった。まだ夕方には間があるのに近所の老人たちが早くも開くのを待って並んでいる。下町ではまだ銭湯が共同の楽しみの場としての役割を持っているのだろう。こんな立派な銭湯が残っているのは、下町の人にとっては風呂に入りに行くことが一種ハレの行為だったからだろう。 
少し坂になったところをのぼると交通量の多い広い通りに出た。荒川にかかる西新井橋のほうに向かっている。以前はこの通りは桜土手と呼ばれていたという。家は通りよりも少し下がった感じである。昔はこのあたりは荒川が荒れるたびに水びたしになったところである。
お化け煙突の跡は桜土手を渡って隅田川のほうに向かったところにあった。いまでも東京電力の土地だが、そこは野球場とテニスコートになっていた。とてもかつてお化け煙突があったところには見えない。何か記念碑でも建っているかなと思ったが残念ながらそれもなかった。自信がなくなったのでちょうど、植木の手入れをしていた老人にここは昔、お化け煙突のあったところに間違いないかと聞いたら、間違いないという。
「煙突はレンガで出来ていた。だからこの野球場も少し掘るとレンガがたくさん出てくる」そうだ。ちなみにレンガは昔このあたりの特産品で、東京駅のレンガは足立のレンガが使われていると、あとで調べた足立区の資料に出ていた。
テニスコートでテニスをしていた若い女性たちに、昔ここにお化け煙突があったの知っているかと聞いたら、何それ、と変な顔をされた。野球をしていた若い男性たちも知らないという。お化け煙突は東電の社員にも忘れられているらしい。壊されてからもう二十三年にもなるので無理はない。
記念になるものは何もないので仕方なくグラウンドの写真をとった。それから『煙突の見える場所』で、田中絹代上原謙の夫婦が住んでいた荒川沿いの千住八千代町に行ってみることにした。千住桜木町から西新井橋を渡ったところである。田中絹代はそこから荒川を通して、川越しに煙突を見ていた。煙突は四本見えていた。