「一冊十円でも買い手がない-文庫本「はかり売り」される - 出久根達郎」文春文庫 漱石を売る から

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「一冊十円でも買い手がない-文庫本「はかり売り」される - 出久根達郎」文春文庫 漱石を売る から

 

 

「古書高価買入」が古本屋の看板のきまり文句であるが、ちかごろは、「最近の本は不要」とただし書きする店がふえた。筆者の店もご多分に漏れぬ。いつから古本屋が客に注文をつけるようになったろう。
私の経験では、文庫本ブーム以後である。客が売りにくるもの、あるいは引き取り要請の品の大方が文庫本であった。文庫が好まれたのは住宅事情である。場所をとらない。しかしそのようなせせこましい住まいさえ、都内では次第に確保がむずかしくなった。郊外にひっこして、当然、通勤時間がかかる。車内読書に文庫はうってつけの軽便さである。
たぶんそういうことだろうな、と思うのは、その頃から大型の本が売れなくなったからであった。ただしそれは都市部だけであって、地方では従来通りさばける。置き場所の問題としか考えられない。
文庫が古本屋にあふれて値がつかなくなった。大阪だかどこだかで、これを量[はか]り売りする店が現れた。窮余の商法である。客が殺到した、というはなしも聞かないから、客寄せにはならなかったらしい。そうだろう、客の方ももてあましていたのである。
私の店も必要以上に買入れの量が多くなり、ついに音をあげてしまった。辞を低くして、お断わりするようになった。すると客が、金はいらない、さしあげる、と言い出した。捨てるにしても物が本だし、どうもあと味がよくない、だれかに読んでもらえれば本も喜ぶし、自分も気が晴れる。ごもっとも。しかしまさか商売人がただでいただくわけにはいかぬ。ほんの煙草代を客に渡した。ところが「捨てるのは忍びない」客がどんどん来るのである。紙袋にしこたま詰め、両手に下げてやってくる。文庫本ばかりではない。月刊誌とまちがえそうなぶ厚い漫画の週刊誌や、女性雑誌が持ち込まれるに及んで、鈍な私もようやく感づいたのである。
相手は金など当てにしていない。いや、いくらかになればめっけ物であって、真の狙いは、本を片づけたかったのである。本の価値は読んだ者が一番わかっている。
「捨てるのはもったいない」価値しかない本だからこそ、古本屋に持ち込んだのだ。「金に換えるのに忍びない」本なら、だれが処分しよう。
早く言えば古本屋に捨てさせようという腹だ。古本屋が捨てるのなら心も痛まない。なぜなら古本屋はそれが商売なのだから。情けなや、古本屋は本のゴミ処分場と目されたのである。「最近の本は買いません」でなく、「不要」と語気をあらげるも、むべなるかな。これは、もはや悲鳴である。
屑屋さんがいなくなったせいである。見せかけの豊かさの常で、物を使い捨てるのが美徳とされ、屑の価値をなくしてしまった。
たとえば筆者の住む東京杉並区の、屑屋さんの問屋での古紙取り引き値は、現在つぎの通りである。新聞紙、一キロ二円、雑誌、同じく一円。これは屑屋さんから問屋が買いあげる値であるから、屑屋さんの利潤はこの半額とみてよい。新聞の一キロという重さは、朝夕刊四日分である。一カ月少し溜めて十キロ、十軒まわってようやく百円の利益である。リヤカー一台集めて何ほどになるか。自分がリヤカーをひき回すとして、何百キロの重量が限度か、考えてみれば稼ぎ高がでる。
荷が出すぎて、彼らは商売にならなくなったのである。労多くして、利がない。
世の中が豊かになるということは、隅っこのつつましい商いを殺す。弱い者を共存させないで切り捨てるのは、人間の心がそれだけ傲慢になったことである。物質面に何不自由ない境遇は、人を見くだす視線を作る。