「大喰いでなければ - 色川武大」文春文庫 もの食う話 から

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「大喰いでなければ - 色川武大」文春文庫 もの食う話 から

私の父親は満九十六歳まで生きたけれども、八十のなかばくらいまでは、朝昼晩、一日三回、ドンブリに二杯ずつ、きっちりと米の飯を喰べた。壮年の頃は大ぶりの飯茶碗で三杯か三杯半くらいが定量であったが、戦争中の食糧不足の折りにドンブリの盛り切り飯の習慣がついて、以後ドンブリ単位になったらしい。
昔、軍艦に乗り組んでいたので、出された定量をちゃんと喰うしつけが身についており、当人も自慢気であった。
「俺の腹は機械と同じだ。いつ、どんなときでも、定まった分量はちゃんと入る」
そういう威張り方をした。
八十何歳かになって、その定量が維持できなくなったとき、彼はとても気持ちを滅入らせて、
「俺も食欲がなくなった。もう駄目だ - 」
そう言い暮したが、けれども、ドンブリ二杯は喰べられなくとも、ドンブリてんこ盛りで一杯ずつ、一日三回、それに夜食に紅茶とトーストぐらいは、死ぬ前年までずっと喰べつづけていたのである。
そのかわり副食物はほとんど喰べない。味噌汁とお新香、それだけでいいとかいって、他の皿にはほんの形しか手をつけない。
バナナをはじめて喰べたときは感動した、というようなことをいう。明治十八年生まれだから、トマトやセロリはやや苦手のようだった。西洋野菜というものをエキゾティックなものを眺める眼で見ていたのであろう。
酒も呑まないし、世間と交際しないから、外で散財をしない。晩年に一緒に寿司屋に入ったとき、ツケ台で好みのものを握って貰って喰うのははじめてだ、一度こういうことをしてみたかった、といった。
したがって、ほとんど、米飯一途といってよい。大喰いだが、長身で、鶴のように痩せている。酉年だったが、
「鳥をごらん、余計なものを身体に溜めておかない。あれを見習うといい」
といって、日に三度、食事が終るとすぐにトイレに入った。当人は健康のための教訓を垂れているつもりだったが、要するに、腸の機能がよくなかったのだと思う。吸収力が万全でなくて、喰べたものが素通りの傾向で出て行ってしまったのだろう。喰べすぎの時代には、それが好条件になって脂肪がたまらない。
翻って、というほど話がひるがえるわけではないが、私の母親は現在八十近いが、肥満型である。特に中年からどんどん肥ってきた。それほど大喰いでもなく、当人も極力喰べないようにしているらしいが、水を呑んでも肥るというタイプである。母親の姉弟たちも、概して肥満タイプで縦より横幅の方がありそうな姉も居た。この姉は、ぼた餅とうどんが好きで、ついでに酒もよく呑んだが、先年、八十幾つかで亡くなっている。別の姉は昨年、心臓発作で急死したが、これも八十にならんとするところだった。母方の縁辺で七十五以下で亡くなった人は居ない。
肥満が心臓に負担をかけていたことはたしかだが、しかし八十まで生きれば、すくなくとも夭折[ようせつ]という感じではない。肥満しておらず、心臓に負担がかからずとも、八十まで生きられるかどうかわからない。
古今亭志ん生のマクラに、摂生して自動車事故で死ぬ人と、不摂生しながら生き残る人とでは、やっぱり事故で亡くなる人の方が、不摂生だ、という小咄があるが、なんだか理屈には合わないけれども、そういう実感がしないでもない。人生は理屈でもパーセントでもない。たしかに肥満は成人病の巣であろうが、だから短命だとは限らない。
私は肥満している。恥をしのんで、というより、開き直ってヤケになっているのである。私は母方の体質を濃く受けて、胃腸の機能が、残念ながらよいらしい。喰べたものの養分をおおむね吸収してしまう。肥満の理由の一は、持病の神経病のせいでもあるらしいけれども、まア過食のせいでもあることはまちがいない。
先日もある酒場で、星新一さんに、
「この腹は、意志薄弱である以外の何物でもないね」
と嗤[わら]われた。自分でもそうだと思う。 
「少し、なんとかしたらどうですか」
といろんな人によくいわれる。
五、六年前に、大手術が二度つづいて、半年ほど入院していたことがある。東大系の私立病院から東大病院に移されて、そこでも一、二を争う重症だったから、気持ちよく死線を彷徨したことになるが、その半年間のほとんどを点滴だけですごし、口からはほとんど何も喰べられなかった。夜なかに病院の地下室の通用口から這うように脱走して、ガウン姿でラーメン屋に行ったりしたが、ソバを二、三本押しこむように口の中に入れると、もうそれで意地にも喰べられなかった。
それで、なんとか退院するとき、二十キロ痩せて、六十五キロになって出てきた。退院間際に、雑誌の対談などで写した写真を見ると、我ながらスッキリしている。
「 - 今の体重が限度ですからね。それからもう一キロも増やさないようにしてください」
と主治医にいわれたし、私も心からその方針を守るつもりでいたのだが、点滴だけで何も喰べないでいたところに、退院して家に戻れば、とにかく何か喰べるから、その体重を維持しろというのは無理難題に近い。
それでも、私としてはずいぶん骨を折ったつもりで、当時、飯を口の中にほおばったことなど一度もなかった。米の飯というものは、三粒か四粒ずつ、口の中にそっと入れるものだという実感が定着しかかった。一キロずつ、徐々に増えたが、そのテンポはゆるい。せめて七十キロを超えないようにしよう、とずいぶん長く思っていた。
七十キロを超えたとき、私は少し考えを変えた。変えたというより、そう考えざるをえなかったという方が正確だろうか。
なるほど、たしかに出っ腹はみっともない。食欲を制御できない証拠をぶらさげているようなものだ。
しかし、私は今まで、無数にみっともないことや、破戒なことをくりかえしてきていて、しかもそれを特に改めようともしていない。自慢ではないが、そのことは皆がよく知っているし、私もおおむね隠す気もない。私が記すものなどは、自分の恥部を売っているような類のことだ。
豈[あに]、出腹のみならんや、出腹だけを、どうして隠そうとするのであろうか。もし改める気ならば、出腹などよりはもっと切実に改革しなければならないことが多すぎるのではないか。
私は母親の体質を受けついで、水を呑んでも肥るようにできている。私の胃は、下垂傾向の日本人の中では抜群に威勢がよくて、胃袋の尻の尾がぴんと上にハネあがっている、と主治医がいった。そのうえ、父親の大喰いの体質も受けついでいるから、痩せろというのは、死ねというに近い。
早死を防止するために痩せるのに、痩せようとして死に瀕するのではなんにもならない。
そう思ったら、迷いが晴れた。実に伸び伸びとして、生きている実感がみなぎった。
それ以来、食事制限、カロリー制限の類はいっさいしない。おかげで五、六年たって、体重がまた八十キロをオーバーして、主治医の前には現われないようにしているけれども、本人はあまり気にしていない。制限をする意志がもともと乏しいのだから、私の出腹は意志薄弱のせいとはいえない。
もっとも飽食しているわけではないのである。若い頃はいくらでも喰えて、食事の梯子など朝飯前であったが、病気以後は胃が自然に収縮して、以前にくらべれば雀の涙ほどしか喰えなくなった。朝夕二回、夜半に二回、昼三回喰べれば夜半はせいぜい一回になる。私は病気のせいで、ときどき一、二時間仮眠する以外は二十四時間のべたらに起きているから、夜中だからといって喰べないわけにはいかない。しかし量は本当にすくない。小さい茶碗に二杯が。デザートにお茶漬けを一杯。酒を呑んでしまえば、ほとんど喰わない。
退院前後は仕事にすぐ戻れないので、徹夜で遊んでばかり居た。退院の日も、畑正憲さんたちがお祝いを兼ねて、家で待ちかまえていて、丸二日、麻雀をした。トイレに行くために立とうとしても、卓に両手を突いてふんばらなければ、足が立たない。
そういう思いをして麻雀をする理由は毫[ごう]もないけれど、どうであれ、いったんやろうと思いたつと、がんばる癖がある。私はさほど意志薄弱ではないのである。
その頃だったが、ある夕方、古い友人に現われて、新宿あたりに呑みに出ようか、ということになった。カミサンが留守だったかして、我が家では支度ができない。
その友人は武田麟太郎の長男で、お父上の体質を受けついで無類の酒呑みだが、小柄で、そのうえ神経質で、あまり大喰いの傾向はありそうに見えない。
ちょうど時分どきだったが、飯より酒だろうと思って、いきなり、お互いに旧知のママのやっている店に行った。まだ外がうす明かるい頃だから、他に客がいない。
ママと、店の女の子が、客がつめかける前の軽い食事をしていた。
「俺もちょっと、その飯、欲しいな」
と友人がいう。
「いいわよ、何もないけど、内輪の食事でよかったら、どうぞ」
私はことわった。酒の前に何か喰うのはうまくない。実をいうと、カミさんが出かける前に支度をしていって、友人が現われる寸前に食事をすませていたのである。 友人は意外にうまそうに喰っている。がんもどきの煮付と、大根おろしと、甘塩らしい鱈子の味噌汁。
私は黙ってそれを眺めていた。そのうち、ふっと、俺も喰べてみようか、という気になった。
「飯、うまいかね」
「ああ、これ、うまく炊けてる」
私もドンブリに軽くよそって貰って、喰った。腹は一杯だが、腹が一杯のところに飯を詰めこむという感じが久しぶりで、新鮮に思える。
私は喰っている最中に、友人が、お代り、といってドンブリを差しだした。
私は首をあげた。小柄な友人が、お代り、というとは思わなかった。なにくそ、という気がした。
私もいそいでかっこんで、お代り、といった。
「貴方、すませてきたから軽く、といったんじゃないの」
「だけど、喰べだしたら腹が減ってきたんだ」
友人は黙っていたが、たしかに、何かはずみがついたというか、気合がこもりだしたというか、そのあたりの空気が濃くなったような感じがした。
私はまだ半分も食べないうちに、
「お代り - 」
と友人がいった。この友人にこんなところがあるとは思わなかった。もうおかずはほとんど残っていない。お茶漬けでいいんだ、と友人がいっている。
私は残りの飯をほとんど噛まずに喰った。ここで退いてはいられない。しかし、意地を張って、というとわかりやすいかもしれないが、それとはちがうのである。なんというか、しばらく抑えていた血がかきたてられた、というか、
と私も弾む声でいった。そうして私たちは、彼女たちの炊いた飯を、カラにして喰べつくしてしまった。
喰べ終ってみると、さすがに苦しい。お互いに、五十の声をきこうという年齢である。天下の愚行をしたようでもあり、それよりも、苦しくて、酒を呑むどころではない。
それで一杯の酒も呑まずにその店を辞して、お互い黙りこくっと話も交さず、どこかの辻で別れて家に帰ってきてしまった。
しかし、ああいう思い出は独特の味わいがある。スマートな人には、とてもあの不思議な充足感は味わえまい。