(巻二十三)飼猫の野性を誘ふ雀の子(岡村一道)

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9月12日木曜日

まだ真夏日がつづくようですが、空は秋模様のようです。仲間に入れていただいている顔本のお散歩写真倶楽部に投稿される写真にも秋の空が増えてまいりました。

秋の空高きは深き水の色(松根東洋城)

日盛や窓拭く人の命綱(斎藤マキ子)

男の子から荷物を送ってくれとの依頼があり、3箱送りました。the地方都市での生活も落ち着いてきたのでしょうか?

本

「私の見た大阪および大阪人(一部抜き書き) - 谷崎潤一郎岩波文庫 谷崎潤一郎随筆集 から 

を読みました。
これからは江戸っ子なんて言っている時代ではない。浪速に学ばねばと読んではおりますが、どうしても読む物は東京人の大阪人観察談になってしまいます。
大阪人が大阪人のことを分析している面白くて“ためになる”書物に出会いたい。
開高健氏、藤本義一氏くらいしか在庫がございません。

谷崎潤一郎のこの文章中では、

《 実際大阪人が「無一文になる」ということを恐れる程度は到底東京人の想像も及ばないものがある。東京人は自分が無一文になることを欲しないまでも、前にいった老人のような境地を理解する余裕があるが、大阪人には全く分らないらしい。彼らはそういう境涯に落ちるのがただもう一途に恐ろしく、たまたまそんな老人に遇えば馬鹿か気違い扱いにして、相手にしないらしい。 》

《 十九世紀の仏蘭西の写実小説を読んだ方々は、仏蘭西人がいかに財産というものを重要視しているか御承知であろう。バルザックやフローベルやゾラの如き大作家は、必ず作中の人物の経済状況を書くことを忘れない。たとい浪漫的なる恋愛物語であろうとも、その主人公なり女主人公なりを紹介するに方[あた]っては、父の遺産が幾ら幾ら、伯母ね遺産が幾ら幾ら、それらから上る利息が年に幾ら幾ら、だから一カ月幾ら幾らの収入があって、そのうちこれこれの方面に幾ら幾らの支出があって、差し引き幾ら幾らの余裕があって、.....という風に、実に念入りに書き立てる。時には三、四代も前に遡って、何某伯爵の何万何千フランの資産がその死後何万何千フランだけ何某侯爵に譲られ、侯爵の死後何某に遺され、次いで何某の手に渡り、.....と、遺産の歴史を、家重代の宝物の来歴のように細々[こまごま]と説明する。大阪人の「財産」に対する観念が丁度それなのだ。分家は本家から幾ら幾らを分けて貰い、それを資本にして幾ら幾らの商いをし、幾ら幾らの動産不動産を作り、その子供が、兄は幾ら幾ら、弟は幾ら幾ら、姉娘の嫁入り支度が幾ら幾ら、と、中産階級の人々はそんなことばかり考えているらしい。従って少年少女の時代から損得の計算に鋭敏であり、「金」についての神経が発達していることは驚くばかりで、東京の中学生や女学生はその点になると全く無能力者だといっていい。この間或る新聞に某百貨店員の談話として、東京の婦人連はレジスターの請け取り票を目もくれないでその場に捨てて行くが、大阪の婦人連は十中の八、九まで大切に持って帰る、という記事が出ていたのは、恐らく間違いのない事実であろう。》

と観察しています。
もっともこの観察は大正から昭和初期の大阪人のことでございましょう。

あたしたち夫婦は東海地方からの移民二世ですから、東京人ではありますが、そちらの金銭感覚が家庭経済を支配しておりまして、無一文に恐怖感を持っておりましす。その点については大阪人の気持ちはよく分かります。

そうそう、関西では「三方一両損」は全く受けないと聞き及んでおりますよ。

余命とは預金残高ちちろ鳴く(野副豊)