「長屋の牛丼 林屋正蔵さん - 増田れい子」ちくま文庫 お~い丼 から

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「長屋の牛丼 林屋正蔵さん - 増田れい子ちくま文庫 お~い丼 から

台東区東上野。地下鉄稲荷町駅をおりて、教えられた通りに横丁をまがると、目の前に忽然とあらわれた長屋。紺ののれんが実直に下がっている。
質素な長火鉢、白黒テレビ、茶だんすにちゃぶ台のある長細い居間、その向こうが台所、そのさきは......ない。いまどきの2DKの元祖は、この長屋であったか、と妙に納得する。小さなちゃぶ台の前に、正蔵さんが座っている。長火鉢の向こうには永年苦労を共にしてきたおかみさんが、ゆかた姿でちんまり火ばしなどを使っている。そのわきに内弟子さんがいて、コーヒーをたてている。正蔵さんはコーヒーが滅法好きである。
「前座の時分ですから二十何歳のころですな、兄弟弟子に小づかいが豊富なのがおりましてな、いろんなところへ連れてってくれてコーヒーも覚えました。カフェ・パウリスタなんていいましてな、ボーイさんが出てきて、コーヒーを持ってきてくれというと“イエス”といったもんです」
このごろは、コーヒー下さいというと“ホットですね”ということになっているが、コーヒー屋さんはその昔から英語が好きなんだろう。
「こういう商売でございますから、一流の食べ物屋には一度はまいりますな。しかし二度とはぜいたくを致しません。がんもどきの煮たの、油揚げごはん、揚げを焼いて大根おろしでいただく、それで一パイ。高級なものはダメで、安い下司[げす]なものがよろしいようで」
正蔵さんはことし八十一歳になるが、古典落語ひとすじ、わき目もふらず愚直に生きてきた。おかみさんがひと言「がまん強いひとです」と、その生きかたを表現する。終戦の年が五十歳。戦争中は陸軍省からの依頼で軍隊慰問、それから軍需工場の慰問。日当は五円だった。ユメのような高収入だった。
「行きますてえと、帰りにおみやげくれるんです。漫才の人は二人分もらえてね、はなし家は一人分ですな、これは仕方ない。戦争がはげしくなって、空襲で家を焼かれるようになる。てえっと火事場ドロなんてのも出ます。警察がつかまえて、オリなんかへ入れる。でも敵機が来てまたバクゲキすれば、逮捕した者もされたのも、いっしょにオリのなかで死んじまう、何てハカないもんかと思ったもんです」
人間なんてハカないもんだ、この思いが、正蔵さんについてまわる。人生五十年を粗食で生きてきて、宗旨がえをするくらいなら、とことん粗食で往生ぎわまで行こう、そんな了見がかたまっているようだ。戦後の食糧難時代にも、粗食できたえてあったからビクともしなかった。
その正蔵さんがもっとも愛好する粗食の真打が、牛丼である。牛肉はすじ肉を買う。「まず、ゆでます。それから細かく切る。醤油と酒をたっぷり、砂糖を入れて、こってり味に煮ます。圧力鍋を使いますと、早くやわらかくなりますな。すじの部分がまことにうまい。他に鉄砲に切った(ブツ切りのこと)ねぎと焼き豆腐もたっぷり入れましてな、酒をのみながら、ねぎと豆腐をつつく、おしまいに、ごはんの上にやわらかくなったすじ肉をたっぷりかけて食う。冠婚葬祭、ことあるごとに、牛丼ですな」
ところが、このごろ、このすじ肉がなかなか手に入らないそうだ。
「聞くところによると、すじが大量に中華料理店、ラーメン屋さんに入っちまう。とりがらでだしをとっていたのが、昨今とりがまずくなったのか、客の好みがしつこくなったのか、とりでは水っぽくて、すじ肉を使うんだそうですな。困ったことになりました」
すじ肉さえ手に入りにくい昨今、粗食さえも行きづまる世の中、ということか。
「亡くなった先代の三笑亭可楽は、戦後宝くじが売り出されるたんびにそれを買いましてな、当たったらその半分ですじ肉をうんと買って、こう皿に並べて、あとの半分で酒と、ねぎと、焼きどうふを買って、それも大皿にこんもり盛りあげて、牛丼をどっさりつくって、弟子たちにごちそうしてやりたいなあ、と口ぐせのようにいってました。牛丼はいいもので......」
牛丼には、吸いものもみそわんもいらない。ほかほかに炊き上がっためしと、つけものさえあれば、酒がすすみ、話がはずむ。
「米粒だけは、昔から粗末に出来ないタチでして、一粒たりとも捨てられませんな。終戦直後なんざ、高粱食べてましたねえ、お米どころか。買出しにも行きましたが、洗いざらい家んなかのもの持ち出しちゃって、だんだん持って行くものがなくなった。どこの家でもそうだったんでしょうな、しまいごろには、農家の人がシルクハットかぶって畑やってたっていいますから」
「甘味もすっかり姿消して、こどもに買ってやったので覚えてますが、柿の皮をむいて干し柿つくる、その柿の方じゃなくて皮の方をまた干して袋につめて売ってましたねえ」
たまに洋食屋に行く。たいていカレー。安いものが「お歯にあいますな」で、時間となりました。