9月16日月曜日
今日の昼飯は昨晩の残り物がないのでオープンサンドということになった。要はチーズトーストの上にハムと胡瓜を載せるだけのものだ。ほかにカートン入りのコーンスープを温めて添え、紅茶であります。
しかし、あたしが幼少の頃(1950年代)、わが家のような貧乏所帯ではこんな豪華な昼飯は想像の世界にも浮かんでは来ませんでした。ですから、今は大変な贅沢をしているとも言えるわけです。
貧しく、また味に関して全く意に留めない家庭で育ちましたので旨いものが判る舌を持っておりません。
不幸と言えば不幸ですが、よい舌を持っていたらその舌の欲望を満たせず悶々としたことでしょうから“終わってみれば”それで良しと致します。
も大した舌は持っていないようで、善かれ悪しかれ食費は食費の範囲です。
今日の夕食は豚肉の薄切りを焼いて醤油ベースのタレで誤魔化した料理。納豆が賞味期限切れになるので食べてしまうようにとのこと。それに昼飯のコーンスープの残り物の暖め返しが献立です。ほかに胡瓜とミニトマト。
あたしの食べもの対するこの姿勢が心に幸せを感じられないもったいない生き方の原因の一つでございましょうか?
《 吉田さんがかういふ幸福な人間、あるいは人間の幸福感を書くことができたのは、近代日本の文学観との関係があるでせう。といふのは、明治末年以後の日本文学では、人生は無価値なもので生きているに価しないといふ考へ方が大はやりにはやつてゐたのだが、その考え方と最も威勢よく争つた文学者はほかならぬ吉田さんだつたから。彼は、人生は生きるに価するものであり、その人生には喜びや楽しみや幸福感があるといふことを主張した。さらに、人生はさういふものだからこそ文明が成立すると述べた。それはむづかしく言へば、文学風土の歪みや貧しさに反抗して人間的現実の総体をとらへようとする、そしてぶんを擁護しようとする事業だつたわけですが、その場合、いはば最初の手がかりになつたのは酒と食べもののもたらす幸福感だつたにちがひない。》「幸福の文学 吉田健一 『酒肴酒』 - 丸谷才一」集英社文庫 別れの挨拶 から
それから、温めたり焼いたりするのはの指示に従ってあたしがやります。洗い物もあたしがやります。念のため申し添えます。
「海外に出て行く。新しいフロンティア(抜き書き其の五) - 村上春樹」新潮文庫 職業としての小説家 から
を読みました。
翻訳者との関係を奥ゆかしくお書きになっております。
《 「あなたの作品を翻訳したいのだが」とか「既に翻訳をしてみたのだが」という風に接近してきてくれました。それは僕にとってはとてもありがたいことでした。彼らと巡り合い、パーソナルな繋がりを築くことによって、僕は得がたい味方を得たように思います。
僕自身が翻訳者(英語→日本語)でもあるので、翻訳者の味わう苦労とか喜びとかは、我が事として理解できます。だから彼らとはできるだけ密に連絡を取るようにしているし、もし翻訳に関する疑問みたいなものがあれば喜んで答えます。条件的な便宜もできるだけはかるように心がけています。
やってみればわかるけれど、翻訳というのは本当に骨の折れる厄介な作業です。でもそれは一方的に骨の折れる厄介な作業であってはならない。そこにはお互いギブアンドテイクのような部分がなくてはなりません。外国に出て行こうとする作家にとって、翻訳者は何より大事なパートナーになります。自分と気の合う翻訳者を見つけるのが大事なことになります。優れた能力を持つ翻訳者であっても、テキストや作者と気持ちが合わないと、あるいは持ち味が馴染まないと良い結果は生まれません。お互いにストレスが溜まるだけです。そしてまずテキストに対する愛がなけるば、翻訳はただの面倒な「お仕事」になってしまいます。》
翻訳の辞書に遊ばす木の実独楽(角谷昌子)