「病気見舞ということ - 吉行淳之介」ちくま文庫 吉行淳之介ベスト・エッセイ から

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「病気見舞ということ - 吉行淳之介ちくま文庫 吉行淳之介ベスト・エッセイ から

私は病気見舞というのは嫌いである。相手が恢復期になっていて所在ないような場合には、出かけて行って世間話をするのも悪くはないが、相手が重病のときにはまことに気がすすまない。ところが、健康な病気知らずの人間に限って、こういうとき平気で見舞い出かける傾向がある。
私のように病院擦れしていると、病気の具合の悪いときには、見舞いになんぞ来てもらいたくない。口をきくのも億劫だし、見舞客にどうしても気を使うところがあるので、面倒くさい。だから、逆の立場になったとき、見舞いに行くことをためらう気持が強い。もっと積極的に、見舞いに行かないことが親切、という考え方さえ持つのである。だいたいにおいて、病気がちの人間には、そういう気持が強いようだ。
先日、市川雷蔵が三十七歳の若さで、肝臓癌で亡くなった。一度、素顔の雷蔵に会ったことがあるが、黒縁眼鏡をかけ平凡な感じをつくっていて、画面でみる凄艶な風貌は見せぬようにしていた。その雷蔵が病床で、
「衰えた顔を、他人に見せたくない」
と言っていた、と聞く。
二枚目俳優としては当然の心得であり、二枚目でなくてもそういう気持はある筈だ、と私はおもう。
ところが、それが違う場合がある。当方がそういう諸々の心使いのあげく、しぶしぶ一度は見舞いに行く。このときの見舞いの品というのが、また厄介である。リンゴとバナナの果物籠とか大きな花束などというのは、いやにも投げやりの間に合わせで、もってゆく気になれない。嵩ばるものは、退院のとき荷物になるとおもって避ける。したがって、花ならばなるべく小さくまとまった趣味のいいものを探さなくてはならぬ。男の病人には、なるべくバカバカしいものを持ってゆくことにしている。以前、芦田伸介胃潰瘍で入院していたときには、ドラキュラ
貯金箱というのを持っていった。小さな箱の上に、百円玉を載せると、モーターが始動してやがて箱の中から青白い手がすうっと出てくる。その手が百円玉を掴むと、素早く引込んで箱の中にいれてしまう。芦田伸介は、これでほかの見舞客から大量の百円玉を稼いだよいである。
こういう見舞いにはまだ面白いところがあるが、それにしても買物にかなり時間がかかる。それが厄介だ。
一度見舞いに行って、もうこれでいいだろう、と考えていると、そうでない場合がある。正視するに耐えないほど衰えているので、行かないほうが親切と考えていると、恨まれる場合がある。癌で亡くなったT氏の場合がそうだった。恨まれたのはF君で、F君は病気のベテランなので、見舞い行かない気持はよく分かった。しかし、T氏は大いに恨み、裏切られたような気持になったようである。
こういうとけろが、まことに難しい。
そのとき、ふと感じたことがある。死病にかかっている人間は、自分がどんなに哀れな姿になっていようと、見舞ってもらいたがるのではあるまいか、と感じたのである。本人が死病と気が付いていないにしても、その人間の奥底からそういう欲求がしぜんと盛り上ってくるのではあるまいか。
そんな感想を持ったのだが、あまり気持のよい考えではないので、それ以上考えをすすめることを中止している。
病気見舞というのは、そこに本人がいるのだから、とやかく言っても無意味ではない。
葬式となると、これは遺族にたいしての義理のようなものであろう。私は死後の世界も霊魂も信じておらず、死ねば灰、とおもっているのでそういうことになる。ほかの人もだいたいそうおもっているだろう。もっとも、偉い人の場合、本人が死んだときより、夫人の葬式のほうが会葬者が多いというような話もある。こうなると、たしかに意味があるが、私とは無縁の世界の出来事である。
私の父親は、かねがね自分が死んだら灰にしてセスナ機から海の上に撒いてくれればよい、葬式の必要はない、言っていた。しかし、実際に死なれてみるとやはり葬式はしたようで、会葬者も多かったそうである。長男の私が「そうである」とは、不可解とおもわれるかもしれないが、丁度そのとき私は腸チフスで隔離病院に入院していた。危篤に近い状態だったので、持ち直すまでは報らされなかった。
知ったときには、とっくに葬式は済んでいて、こんな有難いことはなかった、と今でもおもっている。肉親の死目には会いたくないもので、そのためには(私の父親のような場合は例外として)こちらがまず死ななくてはならず、それもあまり気が進まない。死目は我慢するとして、葬式という手数のかかる厄介で無意味なものは、なんとかならぬものか。
四十歳を過ぎてから、葬式に行く機会が目立って多くなった。ある夏などは、ほとんど連日という感じの時期があった。私は病弱なので、葬式へ行くと半日は使いものにならなくなる。うっかりすると、一日駄目である。まるで、死んだ人間のために生きているような気分になってきた。
以来、少々の不義理はあえて犯すことにきめている。なにもかも一切不義理ずくめにして、「あれはああいう人間だから仕方がない」と言われるようになりたいとおもうのだが、これはなかなかに難しい。