イヤなやつ - 河盛好蔵」新潮文庫 人とつき合う法 から

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「イヤなやつ - 河盛好蔵新潮文庫 人とつき合う法 から

鴎外と漱石

人とつき合う法についておしゃべりをするに当って、まず「イヤなやつ」から始めるのは、多少の理由がある。いうまでもないことだが、「イヤなやつ」という言葉は、決してひとをほめた言葉ではない。われわれが、なるべく人づき合いをよくしようと努力するのは、他人から「イヤなやつ」といわれたくないからである。しかし、世のなかで、多少とも頭角を現している人間で、「イヤなやつ」と批評されなかった人がかつてあったろうか。
文壇とか芸能界は昔からひとの口のうるさいところであるが、森鴎外が死んだとき、雑誌『新潮』の主幹中村武羅夫は、次のような記事をかかげた。「生前はイヤな奴だと思っていても死後その人の逸話や私生活を知ると何となく好きなって来る人がある。ちょっとした逸話にその人の人間らしい面目が見えて、生前の反感が打消されて了[しま]うような人がある。原敬だの山県有朋だの出羽の海だのは、生前イヤであったが、死んでから割合に好感を持てた。ところが生前もイヤな奴で死後も尚イヤな奴がある。大隈だの森鴎外だのがそれだ。彼等の死後業々しく報道される彼等の人となりを知れば知るほど、一層親しみが持てない」云々。これに対して、永井荷風がきびしく抗議したことは、文壇史の有名な一ページになっている。
鴎外と並び称された夏目漱石についても、名作『黒髪』の作者近松秋江が、「僕は暗に世をすねとるようなあのポーズがどうも気にくわんです。あそこにどうも嘘があると思うですよ。西園寺公の清談会に出席しなかったりね。博士をことわったりね。どうもありゃ眉唾ものだな」といって散々こきおろす話が、長田幹彦著『文豪の素顔』のなかに出てくる。

喬木は風が強い
 
そういう近松秋江が、彼の家で一週間ばかり女中をした林芙美子に、イヤなひととして『放浪記』のなかに書かれているのは面白い。文学者というものは人一倍感情的で、嫉妬心が強く、好ききらいが烈しいから、普通の社会では立派な紳士として通っている人に対しても、イヤなやつとか、虫が好かないとかいって、悪口を言うのであろう。しかし鴎外や漱石の文学が、いかなる人物評にもびくともしないで、高くそびえていることは、あらためていうまでもあるまい。
「喬木に風が強い」といわれるように、人間は名声を得てくれば、得てくるほど、世間の風あたりが強くなることは、あらゆる社会において共通のことである。「イヤなやつ」といわれることを気にしていては、生きてゆくことも、自分の志をとげることもできない。フランスの大政治家ブリヤンは、世評というものを全く気にかけず、彼を攻撃した新聞などは少しも読まないで、いつも「自分にとって大切なことは、他人が自分のことをどう考えているかということではなく、自分が奴らのことをどう考えているかということだ」と豪語していたという。社会の接触の多い仕事をしている人は、多かれ少なかれブリヤンのような度胸をもっていなければ、世のなかをしのいでゆくことはできまい。
私が「イヤなやつ」について論じようとするのも、ひたすらに「イヤなやつ」といわれない方法について考えようたというのではない。われわれは、いくら、人から好かれようと努力しても、すべての人から好かれるわけには決してゆかない。それは、われわれがあらゆる人を、分けへだてなく愛しようとしても、絶対にそうはゆかないのと同じである。そんなことは仏陀やキリストでなければできやしない。われわれは人間であるかぎり、特別に好きな人や、どうしても好きになれない人ができてくるのは当然である。大切なことは、自分の好きな人が、すぐれた人、立派な人であることであろう。
いや、しかし、これもまた、いちがいにそうとは言い切れないところがある。いくらすぐれた人、立派な人でも、好きになれない人、親しみのもてない人がいるものだ。私個人についていえば、同じく偉い人であっても、漱石には私淑する気持はあるが、鴎外には親しみを感じることが少ない。
くり返していえば、われわれははすべての人を愛することも、すべての人から愛されることもできない。しかし社会生活においては、自分の気に入った人間だけとつき合うこともできなければ、自分を好まない、自分を「イヤなやつ」と考えている人間に、つき合ってもらわなければならないばあいも、たびたび出来てくる。いやむしろ、そういうばあいのほうが多いであろう。人と付き合う法について工夫をしなければならないのはまさにそのようなばあいである。お互に親愛の情を感じ合える人間同士のあいだには、交際術は必要ないのである。
 
河盛好蔵という男

そこで、再び、ふり出しに戻るのであるが、他人から「イヤなやつ」と思われないようにするには、どうしたらいいのであろうか。それよりも「イヤなやつ」とは、一般的にいって、どのような人間を指すのであろうか。それにはまず諸君の周囲を見まわすだけで十分である。もしくは諸君自身のことを考えてみるのが近道であるかもしれない。自分は人に好かれているであろうか、それともいやがられているだろうか、と自問自答するのである。
私自身のことを考えてみると、私はます人に快感を与える容貌の持主ではない。性質についていえば、他人の幸福よりも不幸を喜ぶ根性の悪さがある。自分はできるだけ怠けて、人を働かせ、その功を自分だけでひとり占めしたいというズルさと、欲の深さがある。権力者にはなるべく逆らわないで、時としては進んでその権力に媚びようとするいやしさがある。絶えず世のなかの動きを眺めていて、できるだけバスに乗りおくれまいとする、こすっからいところがある。他人にはきびしくて、自分には寛大な、エゴイストの部分が非常に多い。ケチで、勘定高くて、他人の不幸にはそ知らぬ顔をし、自分の不幸は十倍ぐらい誇張して、いつも不平不満でいる。考えてみると、「イヤなやつ」の条件をことごとく具えている。
そして、こんなことを、あけすけに書いた方が、かえって得になるとひそかに計算しているのであるから、われながら嫌悪にたえない。そして私のような人間に限って、人に対して好ききらいが多く、自分に圧迫感を与える人間を見ると、すぐに「イヤなやつ」呼ばわりをするのである。
しかし居直って言わせてもらえば、たいていの人間はみなそれぞれイヤな部分を具えているのではないか。人間的なというのは、イヤなやつだというのと同意義語であるかもしれないのだ。そして、このイヤな部分によって、お互に反発すると同時に、お互に愛し合うばあいも少なくないのである。人間の長所美点は、ふしぎにその短所欠点と結びついている。どこから見ても、非の打ちどけろのない人間などというものは、私などからみると、ほとんど魅力がない。そういう人間は、ある意味からすると、「イヤなやつ」ともいえるのである。こちらのひがみであるかもしれないが、それはともかく、人とつき合う法は、この自他のうちにある「イヤなやつ」の処理から始めなくてはならない。