「時代を表現した化粧 - 楊逸(ヤン・イー)」文春文庫10年版ベスト・エッセイ集 から

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「時代を表現した化粧 - 楊逸(ヤン・イー)」文春文庫10年版ベスト・エッセイ集 から

芥川賞のお陰で、プロのメイクさんに数回お世話になった。色んな話を聞いたりしているうちに、お洒落好きな小娘の遊びだとしか考えていなかった化粧は実に奥深いものだったと気づいたのである。それはメイクさんの持っていた長期海外旅行にでも行くのかと思わせるほどの大きなトランクと、腰に巻いたエプロン風の道具入れから少なからず覗くことが出来たのだが、それ以上に迫力を感じたのはメイクする直前に私を見つめるメイクさんの真剣な眼差しであった。
「私を別人にしてください」とはいったものの、気持ちは全く別物だった。何しろ毛沢東の「不愛紅装愛武装」(化粧を好まず武装を好む)という教育を受けて育った世代だし、化粧すると中身がなく容姿で勝負するしかない女だと誤解されてしまう恐れもあり、化粧を軽蔑し続けてきた者なのだから。
来日した当初、「中国人、化粧しないの?」とよく聞かれた記憶がある一方、ほんの五年ほど前に訪日したある中国の地方政府代表団の通訳を務めた時、秋葉原の電気街に連れていったところ、代表団の紳士らは一斉に化粧品売り場に駆け出し、資生堂コーナーを囲んだのを目の当たりにして、何が起こったか暫くわからずにポカンとしたこともあった。
どうしたのか?これまで化粧嫌いだった中国人が急に資生堂に執着するとは。化粧の魔力について何らかの手がかりがないのかと家に帰るなり早速古本をひっくり返した。化粧はやはり中国とは深い縁があったのだ。
「自伯之東、首如飛蓬。?無膏沐、誰適為容」(あなたが行ってからは、髪の毛は鳥の巣のように乱れる様で、化粧品が無いわけではないが、しかし誰のために化粧するというだろうか) これは《詩経》の中の一句で、紀元前九世紀から六世紀頃、兵役に服した夫を思う余り、化粧もおっくうになる妻が詠ったちょっと悲しげな詩である。
「朱唇未動、先覚口脂香」(赤い唇は未だ動いていないのに、口紅の香りはもう漂ってきた)唐の時代になると、口紅は女性にはもう欠かせない存在となり、それだけに留まらず、男性用の特性肉色の「潤唇膏」(リップクリーム)もブームになり、恋愛中の男女が互いに贈りあうプレゼントの定番ともなったほどであった。
この時代の有名人と言えば、ほかでもないかの楊貴妃である。彼女には同じ美人として知られる姉・?国夫人がいた。美人の楊貴妃姉妹の化粧代として、玄宗から毎年千貫にも上る莫大な金を与えられていたとも言われている。千貫、如何ほどのものだろうか、私には想像もつかない大金である。
美貌に自信満々の?国夫人だが、玄宗に朝見(拝謁)した際、化粧をしなかったという逸話から「素面朝天」(すっぴんで天子に朝見した)という成語が今に伝わる。千貫の化粧代を頂きながら、すっぴんで天子の前に現れるとは、ちょいブサイクな女性だったら死罪になりかねないところに違いない。
時代は急に滝のように下って現代になった(私の文章でだけ)。物心がついた頃から、母のお使いで近所の売店に化粧品を買いに行った記憶が蘇ってきた。「雪花膏一両」(クリームを五十グラム)小さな容器を頭より高いカウンターに上げて、母に言い聞かされた言葉を繰り返す。見馴染んだ顔の売店のオバサンは木製のヘラで大きな桶からクリームを掬って容器に入れ、台秤に載せる。「五角よ。多めに入れたから、お母さんに教えてあげてね」
そのクリームを胸に抱え、家の玄関に入るなり「多めにしてくれたよ」と得意げに容器を母に渡し、また次のお使いが待ち遠しくなるのだった。そんな私の思いと裏腹に、母は毎朝クリームをほんの少量だけ手のひらにのせ、丁寧に伸ばしてから、顔全体に馴染ませる。日々の苦労で険しくなった表情もこの時に限って穏やかにほころび、時々にっこりと鏡に向かって笑ったりもした。
それは私の幼少生活の中で唯一化粧品の香を嗅げる時間であった。昨年帰郷した時、母の化粧品を見たら、半ば固体のクリームは液体の乳液に変わっていた。但し、そのペアの化粧水は置いていなかった。
数年前韓流ドラマの影響もあり、中国では化粧ブームならぬ美容整形ブームまで巻き起こった。今時のギャルたちは、化粧にしろ美容整形にしろ、違和感など全く感じなくなったという。町を歩けば、私より上の世代のオバサンたちは両手に葱だの芋だのの買い物袋をぶら提げ、堂々と「素面朝天」で無人の境を行くが如し。それに対抗してか、ロック風の小娘たちは、濃厚のメイクで、あたかも京劇ね舞台を控えているような妙ないでたちですれ違っていく。
その真ん中に、本来ならちょうど「承上啓下」(中堅)の役割を果たすべき私という世代は、今はどっちに追随するかと躊躇いつつ、茫々と尻尾に引き離されていく。時代が嘗て女性から奪った化粧をまた戻してあげようとしているにも拘らず、ひさしぶりの不案内感が残るばかりに、「愛美之心人皆有之」(誰でも美を愛する心を持っている)という払拭しきれない美への本能が戸惑っている。時代を表現した化粧、化粧に惑わされる女性たち、またその女性たちが飾った時代、その奥にある妙味には中々深いものがある。