「尾崎紅葉 - 塚原渋柿園」岩波文庫 幕末の江戸風俗 から

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尾崎紅葉 - 塚原渋柿園岩波文庫 幕末の江戸風俗 から

紅葉君とは御懇意にしました。でその性格も一通りは存じて居ます。極めて熱誠のあつた昔しの江戸ッ子肌の人で、あるいは文学者というよりもむしろ政治家質[タチ]の人であつたかと思われる。人を動かすのは熱誠だが、その点からしても、氏の文章が一世を風靡した所以[ゆえん]が知れます。私の知っている人で彼[あ]れ位熱誠のあったのは、外には星亨さん位のものですな。斯様[かよう]の気質の人の常として、偶[ひょっと]したことが癇き障る。紅葉君もこれで一寸附合悪[にく]いところまあったが、附合って昵懇を重ねるに至ったらこれ程懐かしい人はあるまい。その代り氏の敵となったら堪らない、極端にまで憎まれる。氏の門弟人に対する情誼も同じく極めて親切なもので、血を分けた骨肉でも到底及ばぬ程に世話を焼かれる。今の風葉、鏡花、春葉等の諸君が先生先生といって、没後幾年という今日までも慕われるのは全くその所故[せい]だろうと私は信じて居る。しかしまた一面にはそれだけ厳粛で、時として破門談なども持上る。それもやッぱり氏の熱愛の余に出た、その人の為に好[よ]かれかしの折檻だから、破門された方でも決して恨みとはせず、筋道を立てて詫を入れると、氏も納得されて勘気がゆりる。ゆりるとまた以前に変らず大肌をぬいで世話を焼かれる。そこらの胸襟の洒落というものは、実に昔しの江戸の侠客というものはこんな風でもあったろうかと私も毎々敬服させられたです。それから氏は、諸事「生熟[ナマニエ]」というのが大嫌いで、これは角田竹冷氏から聞いた話だが、僅か十七字の俳句の上でも腑に落ぬ事は合点しない。私は俳句においては真正[ほんとう]の門外漢だから能くは分らぬが、僅々[きんきん]二字か三字の布置按排[あんばい]の上についても、それが一場の座談では済まされずに、直様[すぐさま]尋にも余る長文の消息となって、竹冷氏の机上に舞い込む。竹冷氏がこれに答えれは氏はまた直にこれに酬[むく]ゆる。氏の根気には驚くと竹冷氏も言って居られた。また氏は文章においては百戦練磨主義を取られたので、一字一句も疎[おろそ]かにすることはなかった、それでありながら草稿というものは作らずに初から直[すぐ]書き下[おろ]す、だから氏の原稿と来たら貼紙だらけだ。書いて気に食わぬと紙を裁[き]って貼り付ける、それから氏の癖で、貼った上をコツコツ叩く、その為め一寸右の中指に隆起[たこ]が出来て居た。私は別に草稿をつけて浄書する方の流儀だから、ある時氏に向って、そんなにするなら矢張り初に下書をしてそれから清書をなさる方が宜いでしょうといったら、氏は頭を左右にふって、「私にはそれが出来ぬ。下書だと思えば下書の気になって筆が疎[おろそ]かになる。初から真剣勝負、筆を執って紙に臨んだら最[も]う戦場の覚悟で前後左右を顧る暇はない、全力を集注して一心不乱に書く。この呼吸ばかりで文章が出来るのだから、草稿流ではとても書けぬ」といわれた。それからその百戦練磨主義に対してこう云う御話も一つある。僕の一友人に一気呵成主義の人があった。私は文章が下手だから自分は一気呵成流は遣らぬが、もしそれ腕の出来上った人においてはこの主義も可[よ]いと思っているから、ある時 - たしか厳谷君の洋行を送った席かと覚えている - 私がその友人の説を計らず紹介すると、紅葉君直に躍起となって論鋒を向ける、理趣を究めずんば止まぬという意気込なので私は大に困らされた事がありました。この様に氏は何でも物事を中途にして置くことを嫌ったのだ。しかし自分自身の作物に対しては世間で如何様な批評を向け様とも、それには一切構わなかった。これは氏の平生と矛盾の様にも見え様が、氏が何時も言って居ることには「他の問題から口を付けるが自分の作物に対してだけは何も言わぬ積だ。詰り瑕疵を付した酷評は生中[なまなか]の賛辞よりも多大の利益を自分の身に与えてくれるから」とのことでしたが、この辺は特に氏の性格において感ずべき点だと思って居る。
氏一代の作で傑作といったら『多情多恨』を推す。私は一冊秘蔵して居るが、折々繰返し繰返し読む。表紙の除[と]れたのを自身修繕[つくろ]ってまで読んで居る。しかし読んで面白い作といったら『隣の女』、対話の巧みな作といったら『冷熱』などであろうが、『冷熱』は惜いことには完結して居らぬ。全然結構その他の点から見て、首尾貫徹した完璧の作といったら私は如何[どう]しても『多情多恨』を推す。実を言えば他のものはズット段が違って居る。この事は紅葉氏自身に向っても直接話した事です。「かの葉山誠哉と鷲見柳之助とがある待合で芸妓や下婢を相手にして遊ぶ所は、詼謔百出、真に文字の奇を窮めてはいるが、しかし彼処[アスコ]だけなら私にも如何にかしたら書け相にも思うが、かの柳之助に長時日間、同じ愚痴を繰り返しまき返し続けさせる、それで層一層より深く読者の同情を惹くというに至っては如何して書けたか、彼[あ]れだけは所詮真似事もならぬ」といったら、氏は「誠によく見て呉れた。実はそれが私の最も精力を籠めたところで、今まで書いた筆致を追えば、最[も]うこれ以上のものは書けぬ」といわれた。でもこれは私が言った語を受けての挨拶か、そこは分からぬが、兎に角この『多情多恨』が氏の作物に置ける一転捩[いちてんれい]をなして居た様で、この次に出た『金色夜叉』に至っては言うまでもなく少し風変りの文字となった。勿論『金色夜叉』も結構です。結構ですが前の『多情多恨』ほどには私は感服せぬ。それは「歌がるた」から「熱海の別れ」、また宮が「一月十七日の雪の感」、節々を取れば露の滴るような名文句も多いが、一段の錦絵としてどちらを愛翫すると云えば、私はやはり『多情多恨』を取る。「殊に間貫一が満枝という美人にあれまで慕われながら、色好い返辞どころか、何時も睨み附けて追帰すというのは何ぼ夜叉の夜叉たる本領そこにありとしても余り苛[ヒ]ど過る」と私が言たら、氏は「そう言われては困る」と笑われた。それに地の文にも何処やら斧鑿[ふさく]の痕も見えるようで、何時も椋磨きとは行かない。それから節々の好い点から云うと『二人女房』などもそれである。が惜いことには雑誌に切れ切れに出されたので、初めには元禄振、中頃に雅俗折衷体、果ては言文一致調という様に、全体としての調和が欠けて居る。善くは出来て居るがただそれが瑾[きず]だ。それからなお氏の作に敬服するのは対話の妙と警句で、如何なものでも仇矢[あだや]がない。私は曽[かつ]てある作を読んで眼目の対話の所まで来ると、故[わざ]と次を読まずに隠して仕舞う、そして作者に代って自分で句案をして、この問に氏はどう答えさせるかと試み試みして見ましたが、臨みて見ると、矢張り原作が一番宜[よ]い、場所に嵌まってチンとして動かぬ。これでその及ぶべからざるを悟った。また氏は色男を書くと如何してたものか半道[はんどう]の滑稽じみた者を多く出す。『冷熱』の勝見琢次、『隣の女』の粕壁譲の如きはそれだ。氏に聞いて見たこともあったが、笑って居て能くは答えて呉れられなかった。昔しの芝居には色男は半道の心掛でするという自然の掟があったそうだが、その様な事でも考えられたのかそこは知らぬ。自然を写すことは氏の長技でない。『烟霞療養』なども氏の筆としては慊[あきた]らぬ節が多くある。