1/2「客室課マネジャー 小池幸子 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

f:id:nprtheeconomistworld:20190928082545j:plain


1/2「客室課マネジャー 小池幸子 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

バスタブに体を横たえると、トイレの内側の汚れがよく見える

帝国ホテルへ足をはこぶことの多い人は、ロビーで客を迎えあるいは送り出す、明るく気さくな感じの着物姿の女性を、何度が目にされたことがあるかもしれない。彼女が、ホテル内で多く賓客・顧客と接する時間をもつ、“特別社員”でもある客室課マネジャー小池幸子さんである。
一九四二年(昭和十七)埼玉県生まれ。六一年に帝国ホテルに入社、旧本館のライト館、東館と呼ばれた第二新館で、客室課メイド勤務。八九年に本館第一支配人となり、帝国ホテルで育児をしながらの女性管理職第一号となった。九七年、迎賓館担当客室マネジャー、帝国ホテルのアテンダント支配人となり、国賓の接遇に責任者としてあたった。二〇〇二年に定年を迎えたが、引きつづき特別社員として、賓客・顧客の接遇にあたっている......これが小池さんの入社以来今日にいたる。大筋な経歴だ。
この軌跡をたどるだけでも、小池さんが帝国ホテルのもてなしの現場における重責をいかにながきにわたって担ってきたかが、手にとるように分かる。実際に話をうかがった小池さんの言葉にも、そのことへの強い自負心と充実感があふれていた。そして、つねに笑顔を絶やさずに語るその表情は、そのような重要な仕事をいまも担っていることの幸福感で、はじけるようにかがやいていた。
ただ、その明るい表情は、常人を超えるエネルギーと、人に語れぬ数々の辛酸が組み合わされたあげくに生まれたものであろうと、私は勝手に想像した。そんな小池さんだからこそ、ホテルのロビーという空間での着物姿を、自然なけしきとしてすんなりと納得させてしまう手品を、かるくこなすことができるというものだろう。
その着物姿について小池さんは、「帝国ホテルは、海外からのお客さまをもてなす迎賓館として開業したホテルであるということから考えると、着物でお客さまをもてなすことはごく自然なことであり、とても誇りに思っています」と語っている。ちなみに、小池さんの後輩であるゲストアテンダント(インペリアルフロア専任の客室課スタッフ)のユニフォームも、女性はすべて着物である。「ホテル内の日本料理店は別として、客室係のスタッフが着物で接客にあたるというスタイルは、日本のホテルの中でも、現在ではめずらしいかもしれません」、と小池さんは笑みを浮かべながら言っていた。その言葉にもまた、仕事に対する誇りと自信があらわれていた。
その誇りと自信の源となるもてなしの根本精神を、小池さんは先輩から受け継ぎ、後輩に伝える努力をつづけている。宿泊部という職場の家庭的なあたたかさの中において、日々このような縦の継承がおこなわれているというわけだ。小池さんは、かつて「帝国ホテルの顔」である総料理長だった村上信夫氏や、客室係の大先輩であり、八十代まで現役としての仕事をやりとげた先輩竹谷年子さんから、日々の仕事を通して学んだ“おもてなしの心”を、後輩に伝えることを自らに課しているという。
ホテルのロビーと着物姿の融合は、実は簡単なことではない。一般的に言えば、ホテルに宿泊する客と旅館に泊る客には、そこで味わいたい空気において、微妙なちがいがあるのではなかろうか、大雑把には、ホテルでは洗練されたクールなサービス、旅館では家庭的なあたたかいもてなし、というふうに。
だが、これはあくまで平均的な特徴なのであって、ホテルにおける洗練されたクールなサービスの中に、人心地をおぼえさせるあたたかさがごく自然にかもし出されたとすれば、話は別だ。ホテルのクールなサービスという世界を教科書的に学んでそれに徹しようとすれば、抽象的で人間味にとぼしい、冷たすぎる雰囲気をつくってしまうだろう。
私は、京都のある老舗の旅館で、何とも言えぬ居心地のよさを感じさせられたことがあったが、それは“放ったらかし”による極上の気分を味わわせてもらったせいだった。“放ったらかし”は一般的には旅館らしくないやり方と思われがちだが、そこから押しつけがましさのない、ホテルのごときクールな自由さが生じる。旅館としての完璧なしつらえ、もてなしが成り立った上であるば、“放ったらかし”は贅沢なおまけとなるのだ。
小池さんが、帝国ホテルのもてなしの中でかもし出そうてしているのはその逆、洗練されたクールなサービスが徹底している空間で、人間味のあるあたたかい心根を、宿泊客とのあいだに無理なく自然にかよい合わせようということではないだろうか。
着物姿は、その精神の第一歩ということになるだろう。小池さんの“おもてなし”には、つねに人が人に対するときのあたたかさを、帝国ホテルの流儀をくずすことなく生かそうという、スリリングな試みがあるような気がした。
その、“おもてなし”はもちろん臨機応変、これまでの経験則や独特の勘、宿泊客の心のありようへの観察力、人間という不可思議な存在への読解力などの総動員が条件となり、過ぎたるは及ばざる以上のマイナスを呼ぶのだから、彼女が自然にこなすことを踏襲するのは至難のワザにちがいない。小池さんが到達した「お客さまは十人十色でなく、一人十色」という境地は、客室課の新人にとっては、気が遠くなるほどの高い地平であるにちがいない。