2/2「客室課マネジャー 小池幸子 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

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2/2「客室課マネジャー 小池幸子 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

客室課の仕事はおびただしい数にわたっているが、その中で客室の掃除は最重要の作業だ。前泊した客の痕跡をいっさい残さないことが鉄則であり、これが“おもてなし”の大前提であると、小池さんは言う。「前泊客の痕跡を探るためね教則本やマニュアルなどないから、自分の五感をたよりにするしかないんです」、と小池さんは言いきる。たとえばにおいは、数秒後には慢性化して何も感じなくなっていまうから、部屋のドアを開けた瞬間が勝負だという。嗅覚に全神経をそそぎ、におい対策を講じる必要があるや否やの判断を一瞬のうちにしなければならない。換気設備がととのっている現在は、それほど頻繁に問題が生じることではない。だが、香水、葉巻、ルームサービスの料理の中の香辛料......それらのにおいが残っているのを感じた場合は、即座に脱臭機を稼働させる。さらに念には念を入れる意味で、チェックインの当日には、消臭スプレイを何回か定期的にまいて、前泊客のにおいを完全に断ち切る。
次は目のチェック.....窓の指紋、壁のシミ、カーペットの汚れ、チェストの傷、時計の針の微妙な狂いなどのチェックをするのだが、ソフィアや椅子に腰掛けて、客の目線で集中的に見るという。そのさい、目線の動かし方を右回りが左回りかまで決めるというのだから、前泊者の痕跡を消すことには、徹底したプロの作業がともなってくる。椅子の坐り心地をたしかめる途中で、クッションが落ち込む、“座落ち”を発見すれば、すみやかに修理に出す。
ベッドに寝てみて天井の亀裂を点検し、バスルームではバスタブに実際にからだを横たえて汚れを探す。バスタブからは、トイレの内側がよく見えるそうだ。トイレの掃除は、現在は柄のついたブラシやゴム手袋を使っているが、小池さんの新人時代は、素手で持ったヘチマですみまでごしごしと磨くことを先輩からおそわった。トイレ掃除がやっと終って、昼食にしようと思っていると、先輩からその部屋の掃除のやり直しを命じられたり、トイレ掃除についてはさすがの小池さんもかなりのダメージをようだ。
ともかく、宿泊客がドアから部屋へ入る前には、客室課による徹底したプロの作業が終っているというわけだ。それでも、やがてそのつらい作業が小池さんにとって楽しい仕事に切りかわり、やりがいのある仕事になっていった。「だから、ほかの部署への異動など、一度も希望したことがありません」、と小池さんは笑顔で胸を張った。
私はその言葉を、禅寺で禅僧が行なう農作業や掃除などの労働が、仏道修行の原点として“作務”と呼ばれることを思いかさねていた。そして小池さんには、帝国ホテルの“おもてなし”を極めようという高い志があり、それゆえに苦しみを楽しさ、やりがいに一転させることができたのだろうと思った。小池さんがバスルームを掃除するときの、着物にタスキがけのスタイルは、まさに作務衣ではなかろうか。
かつて高校卒業を前にした小池さんは、マリリン・モンローが泊ったホテル、ライト館のイメージなどへの、“ミーハー的”と自分でも言うあこがれから、帝国ホテルの試験を受けた。身長百五十七センチ以上、眼鏡は駄目という件はクリアできたものの、“容姿端麗”なる条件が確実にネックになると思ったというが、なぜかすっと受かることができた.....と小池さんは述懐する。
そのときは犬丸徹三社長の時代だったが、その犬丸氏が訓示の中で、「客室に配属された方は幸せです」と言い、「なぜかといえば、きらいな掃除も好きになるというわけで」とつけ加えたという。小池さんについては、まさにその言葉通りになったわけだった。
しかさ、それは苦しみやつらさを逆転させる並はずれたエネルギーと、生来の太陽のごとくかがやく明るい性格あってのことだったにちがいない。そんな小池さんにとって、帝国ホテルの客室課は天職と言えるだろう。そして、上層部にとっても彼女は、帝国ホテルの“おもてなし”の心を実践する現場の人としても、後輩へバトンタッチするための支柱としても、心強い存在であることはたしかなことだ。
だが、そんな小池さんにとっての快適な旅には、いささかネックがあるのではなかろうか.....と私は小池さんの笑顔をながめながらおもてなし。そして、どこかへ旅してホテルにチェックインし、バスルームや壁や窓ガラスをひと通りながたあげく、大きく溜息をついてソファに背をもたせ、この件を係に注意すべきか否かを思いなやみ、ハムレット状態になっている小池さんの姿を、私は目のうちに思い浮かべていた。