「鏡と鑑-『リチャード二世』 - 松岡和子」ちくま文庫 「もの」で読む入門シェイクスピア から

f:id:nprtheeconomistworld:20190930081425j:plain


「鏡と鑑-『リチャード二世』 - 松岡和子」ちくま文庫 「もの」で読む入門シェイクスピア から

イギリスの歴代の王様のなかでも最も大きな屈辱をなめたのは、リチャード二世だと言っていいだろう。
プランタジネット家の八代目の王、生まれたのは一三六七年、在位は一三七七年から一三九九年だから、十歳のときに王位に就いたことになる。父親はエドワード三世の長男のエドワード黒太子(ブラック・プリンス)。百年戦争中、クレシーとポワチエフランス軍を破った英雄だ。ところがこの皇太子は王位に就く前に死んでしまった。そこで、リチャードが祖父王の跡を継いだというわけ。
そんな優れた英雄の血を引きながら、リチャード二世の王様としての評判はあまりかんばしくない。「弱い」というイメージがまずある。優柔不断、感情の起伏も激しかったようだ。国庫の財源を浪費し、それを埋めるために法外な税金を課し、挙げ句の果てに私有財産の没収までやってしまった。叔父であり後見役であるジョン・オヴ・ゴードンが死ぬと、その財産を没収したのである。ゴードンの息子のヘンリー・ボリングブルックが、どれほど復讐心をたぎらせたかは容易に想像できる。おまけにこれは、彼がリチャードによって追放されている間の出来事なのだ。
シェイクスピアの『リチャード二世』は、そのボリングブルックの追放のくだりから幕が開く。そして、彼によってリチャードが玉座から引きずり降ろされるところが山場である。
ボリングブルックはのちのヘンリー四世だが、王権神授の考え方が堅固だった時代に王を退位させ、そのうえ暗殺までさせてしまった罪は、言わばイングランドの王族のトラウマとなる。
リチャード二世は、すでに述べたとおりはっきり言って駄目な王様なのだが、その反面詩人肌で、女性的な繊細な美しさをそなえたハンサムだったらしい。ロンドンのナショナル・ポートレイト・ギャラリーには、細面で少女のようですらあるリチャード二世が玉座に坐っている肖像画がある。戴冠式の彼の姿なのだろうか。気のせいかひどく心細げに見える。
さて、そのリチャードがボリングブルックによって退位に追い込まれる山場は、第四幕第一場である。ウェストミンスター大会堂。ボリングブルックによって、故グロスター公爵(エドワード三世の七人の王子の一人、つまり、黒太子やジョン・オヴ・ゴードンの兄弟)の死に関する査問が終わったあと、リチャードからの使者が登場し、ボリングブルックに王位を譲る旨を伝える。だがボリングブルックは衆目の中での王位委譲を望み、リチャードを呼び出す。呼び出されたリチャードは、無念の思いを縷々語る。ボリングブルック側は、彼が王冠と王笏を渡し、王ヘンリーへの祝福の言葉を述べるだけでは満足せず、退位が当然だと人々に納得させるため、リチャードとその臣下たちが犯した罪状が書かれた弾劾文を読むように促す。リチャードはそれを拒絶し、鏡を持ってこさせるよう頼む。自分が今、どんな顔をしているか見たいからだと言う。
従者によって鏡が運ばれてくる。
鏡に映った若々しい顔(リチャードが殺されたのは三十二歳)には、まだ苦悩や老いのしわは刻まれていない。彼は「おべっか使い」の鏡を床に叩きつける。
深い悲しみ、屈辱、自嘲、自己憐憫、そして自己劇化(リチャードは、鏡を割った行為を「この余興」と言う) - 様々な感情がリチャードの胸に去来し、この人物の資質が結晶したかのような名場面だ。
実際に鏡が出てくるのはこの場面だけだが、「鏡」という言葉はこの戯曲の中でたびたび現れる。たとえば、ボリングブルック追放の宣言のあと、その父親の、ジョン・オヴ・ゴードンに向かって王リチャードが言う - 「叔父上、あなたの目という鏡には/悲嘆に暮れるあなたの心が映って見える」と(もっともここでの「鏡」はmirrorではなくglassが使われているけれど)。そこで王はボリングブルックの追放年限を十年から六年に短縮する。それを聞いたボリングブルックは、王のたったひと言に人の殺生与奪の力がこもることを実感する。このとき彼の心に王位への野望の芽が萌え出たのかもしれない。
一九九五年の夏、私は優れた『リチャード二世』の舞台を見た。イギリスのロイヤル・ナショナル・シアター(NRT)が、デボラ・ウォーナー演出によりコステロー劇場(RNTの三つの劇場のなかで一番小さい)で上演したものだ。小さな劇場全体を教会の内陣のように仕立て、客席は中央の十字形の広い回廊によって四つに区切られている。
ユニークな装置をはじめ、この舞台は優れているばかりでなく、大いに変わってもいた。なにしろ主役のリチャードに扮したのが女優だったのだ。フィオナ・ショー。アメリカの演劇雑誌に「大西洋を渡って見に行く価値のある女優」と書かれた逸材だ。髪を思い切り短くカットしてあるほかは、特に「男」っぽいメークもしていなければ発声もいつものフィオナと変わりない。ごくごく自然な演技なのにリチャードになりきっている。この女優の希有な特質のひとつは、どんな深刻な芝居のどんな重い役でもかならずそこにユーモアの響きを込められることだ。その特質のおかげで、前半のリチャードの愚かしさや軽薄さが軽やかに表現され、その分、後半の悲劇性が際立った(退位の場、ボリングブルックの足元に身を投げて完全にひれ伏す)。
この公演での鏡は木のフレームのついた正方形の小さなもの。割れてなんぼ、という感じが悲しかった。
「鏡」と「鑑」、どちらも「かがみ」だが、英語のmirrorにも日本語とまったく同じふたつの意味がある。姿、顔かたちを映し出す鏡、人なり事象なりの手本である鑑。ちなみに『リチャード二世』の材源[ソース]のひとつは『王候の鑑』(A Mirror for Magistrates)。鏡を割ったリチャードはまた、鑑であることも放棄するのだ。