「死に対する恐れ - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

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「死に対する恐れ - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

人々はなぜ死を恐れるのだろうか。それは、
①未知の世界に入っていく。
②苦痛があるのではないか。
③いままでの日常からの脱却
という三つの点にあるのだと思われる。この三つの点について、ある程度の解答がだされれば、ある意味での死生観はでてくるのではないかと思う。
死はたしかに未知の世界である。そして非常に特別の世界のように思っているが、生まれた人は必ず死ぬわけであり、人類の歴史はじまって以来、死ななかった人は一人もいない。少しシビア-な見方をすれば、人間は生まれた瞬間から一歩一歩、死の方向に歩んでいるのだともいえよう。たとえば、誰でもが感じる老化というのは「生から死への時の流れ」だということもできるし、そのように考えれば、死はきわめて自然なものである。
死は物質的にいえば、一種の消滅である。やがては自然の中に帰していく以外に考え方はないだろう。ただ厄介なのは「魂」のようなものである。そんなものはないとはっきり否定する人と、宗教を信じて、霊魂は永久だと思う両極端の人は、それぞれに、それで救いがある。しかし、そこのところが中途半端でよくわからないという人は救いがない。この点では、たとえ真実てないにせよ、人々を過去一万年にわたって引っ張ってきた宗教の力は偉大だったといわねばならない。しかし、この点は、おそらく将来とも解決のつかない問題だろう。ただ、答えは「ある」「ない」の二つしかなく、信じるか信じないかの問題であろう。これがいかに厄介な問題かというのは、次のようなエピソードがある。
カナダにペンフィールドという脳外科医がいた。“脳外科の父”ともいわれ、今世紀に大活躍して、脳の中で、私たちの行動のすべてが分業体制になっていて、それぞれの行動を支配する脳内の位置を確認した人である。ペンフィールドは、やがては精神活動のなぞも解明するといきおい込んでいた。ところが、死ぬ直前になって「第四次元の世界は存在していて、それは脳内ではない」といいだした。これは世界じゅうの大脳生理学者に大きなショックを与えた。大脳生理学者の大半は心身一元論で、やがては科学が精神のメカニズムを解明すると信じて研究をつづけてきたのに、ペンフィールドのような大科学者に心身二元論を打ちだされたことに当惑した。「人間は死が近づくと、宗教的になるのではないか」といっていた日本の大脳生理学者もいたが、一刀両断にこの問題を解決するというわけにはいかないようである。
しかし、私見をいわせてもらえば“死んだらそれまで”と思うほうが、あっさりしているのではないかと思う。別に霊魂不滅を信じている人に議論をふっかけようという気持はさらさらないが、死んだらそれで結末がでるということであれば、生きている間がすべてであり、一生けんめい生きなければならない。そうなると、「いかに死ぬか」というのは、とりもなおさず「いかに生きるか」ということになる。死んでからも未来があるというのは、ややこしいし、また未来の苦労もでてくるというものである。
死は未知の世界ではあるが、アメリカの女性の神経科医のエリザベス・キューブラー・ロスは『死ぬ瞬間』という本の中で「病気や事故で死の一歩手前までいって、幸い生き返った場合、死の受けとり方は宗教心の有無にはあまり関係がない。また、死に直面したま人のほとんどは死を恐ろしいものとは受け止めておらず、死を眠りととらえている人が圧倒的に多い」といっている。
死と苦痛はつきもののように思われているが、必ずしもそうではない。外科医で死の医学にも興味を持っている宮本忍・日本医大名誉教授は「私たちが実際に患者を診ていると、死線期は本当にみていられないような苦しみ方をしても、それを越えると患者は非常に安らぎの気持になっている。死を非常に苦痛というとらえ方は、医学的には成り立たないように思う」といっている。
日常性の脱却というのは、人間の一生にはついて回るものである。海外勤務、下宿、結婚など、多かれ少なかれすべて日常性の脱却がある。死だけが特別のものではあるまい。ただ、死の場合は、一人で行かなければならないというところに日常性の脱却があるということはできるだろう。これはさきに説明した孤独の問題である。
「人は棺をおおったときに評価が決まる」といわれる。棺をおおったのちの活躍で評価されたのは、キリスト以外にはいないようである。「はじめあるものは必ず終わりあり」というのが「死」の本質のように私は思う。