1/2「食物の美 - 吉田健一」中公文庫 私の食物誌 から

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1/2「食物の美 - 吉田健一」中公文庫 私の食物誌 から

見た目に綺麗だから旨いとは限らないことは言うまでもない。併しいつも不思議に思うのは、婦人雑誌のグラビアなどに料理の写真が出ているのが如何にも綺であるのみならず、旨そうな感じられることで、そういう時は旨いのと綺麗であることの間に何か関係があるのかも知れないという気がする。尤も、これには直ぐに註釈を付けなければならなくて、雑誌のグラビアは確かに綺麗で旨そうであるが、これは洒落た家具を置いた室内などのグラビアと同じで何か技術的にそんな風に見えることになるのであり、こういう室内だとか、料理とかいうものは実在しない。紙の艶がそうした錯覚を生じるのかも知れない。併し錯覚でも、綺麗に見えるものが同時に旨そうに感じられるならば、旨くて綺麗なものは少なくとも、あり得ないのではないかということが考えられる。
というのも、旨くない食べものが綺麗に見えても、何にもならないからである。又、旨くなくで綺麗に見えるだけの食べものならば幾らでもあって、お正月や婚礼の時の料理に出る色を付けた蒲鉾など、そのいい例である。どうも、生地が綺麗なのが料理では本当に綺麗なのだということになるようで、それならば、河豚の刺し身が直ぐに頭に浮ぶ。河豚だけの問題ではないが、その刺し身が透き通って光っているのが赤絵か何かの大皿に並べてあるのは壮観で、日本料理では美しいものの一つに違いない。この場合は、味も外観に伴うものであるようで、透き通って光っている具合が眼を驚かすのに比例して河豚の味もいい。その聨想から、伊勢海老の牡丹作りというのもあって、何もそんなことをしなくても伊勢海老の新しいのを刺し身にしたのは旨いが、それが牡丹の花の格好に作られて皿に盛ってあるのは、これも見事なものである。併しそんなことばかり余り考えていると、見た眼の効果の方が先になって、肝腎の味がどこかへ行ってしまうことにもなる。
要するに、食べものは旨ければいいので、その外観は実際には大して問題ではないのだということを忘れてはならない。烏賊の黒作りというものがあって、これは烏賊の墨も一緒に混ぜた烏賊の塩辛であるが、義理にも綺麗などとは言えなくて、床に落ちていたりしたらもっと積極的に汚い感じがするに違いない。併し烏賊の塩辛はこれに限るので、見た眼にはもっとお上品な、墨を取ってしまった普通の烏賊の塩辛はこれに遠く及ばない。生雲丹は日本でも、西洋でも食べて、旨いものであるが、これも余り綺麗な感じがするものではないし、他のこれに似た食べものではこのわた、生牡蠣、或は各種の魚の白子など、外観に構っていては食べられない。そして食べなければ、損をする。又食べていれば、直ぐに馴れるもので、或る種の食べものが如何にも汚く見えるというのは、主にこの馴れ、不馴れの問題であるらしい。その上に、ただ汚くはないというだけでなしに、綺麗に見えるものを求めるならば、食べものの種類も限定されて来ることを覚悟しなければならない。
如何にも美しいという感じがするものに、支那で上等な鱸[すずき]を形容して使う巨口細鱗という言葉がある。鱸を取れたままの姿で見たことがないので解らないが、大きな銀色をした魚がそこにあるという気持にはなって、尤も、これは料理する前の話だから、食べものの美しさの中には入らないかも知れない。その点、料理をするものはその結果をただ食べるだけの我々よりも色々なものを見ている訳で、例えば、子豚も歩き廻っている様子が可愛いから、これを丸焼きにしたら旨いだろうと判断したりすることも想像される。この辺で話を日本料理から西洋料理に移すと(何れは又戻って来ることになるだろうが)、子豚の丸焼きというのは見た眼に別にどうというものではない。併し可愛い子豚だったので、食べても旨いということは充分に考えられて、英国の小説で登場人物の一人が朝、ベーコンを食べながら、これはどうも仕合せに一生を送った豚らしいと言っている所があったのを覚えている。
西洋料理で出て来るものを綺麗と感じたり、汚いと思ったりするのも、一つは前に触れた馴れの問題であるようで、牛肉の塊を英国風に焼いたのなど、昔の日本人ならば、ただ呆れるだけだったかも知れないが、この牛肉を焼いたのの上等なのは、それを幾枚にも切り分ける前も、後も、確かに眼にとっても魅力がある。併しここに一つの問題が生じるので、その塊、或は切り分けた一枚一枚に惹かれるのが、経験でそれがどんな味がするか知っているからか、或は純粋に視覚的にそれを美しいと見るのかは、これはどっちとも言い難い。直接火に当った外側の所は、その焼け方がその味を思わせずには置かないもので、それとは別にそれが美しいものかどうかは美術評論家にでも、その際には食欲の方は完全に抑えて、決めて貰う他ない。ここでもう一つ、問題が出て来て、一般に美というものは、何か前にいいことがあったのでその聨想から美であるのだろうか。随分これは、面倒なことである。尤も、カントは我々が自分のものにしようとは思わない天上の星は美しいと言っている。