「金の生い立ち - 邱永漢」中公文庫 金銭読本 から

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「金の生い立ち - 邱永漢」中公文庫 金銭読本 から

人間は人工衛星をとばすことが出来るかも知れないが、自分の背中を見ることが出来ない。「痒いところに手が届く」という言葉も、裏をかえせば、人間の背中には構造的に言って手の届かない部分があるからに他ならない。最も手近なところや、密着しているところには、かえって眼が届かないのが人間の弱点であって、「知らぬは亭主ばかり」とか「灯台もと暗し」とか言った表現もこうした傾向の現われであろう。
金と私たちの生活はあまりに密着しすぎているし、利害関係がありすぎるので、金が必要欠くべからざるものであることや、その金がないためにしばしばなかされることなどは、経験上から知っているけれども、金がどういう環境で生れ、育ち、またどういうわけで今日私たちが大いに手古摺[てこず]らされる無類のヒネクレ者になったか - その素性については案外知らないのではあるまいか。
人間が完全なる自給自足経済を営んでいた時代や、収穫してきたものを村の者が共有していた共産制社会にはもちろん、金は必要なものではなかったし、従って金は存在しなかった。ところが、猟を得意とする人間もあれば漁業を得意とする人間もある。それぞれその得意とする仕事をした方が能率がよいので、職業上の分化が必然的となった。猟ばかりしている人間は、生活をして行くために彼らの収穫物を穀物や塩やその他の日用品と交換しなければならない。最初は恐らく物々交換が行われたのであろうけれども、世の中が複雑になるにつれて交換の尺度となる物が必要となった。一番普遍的で一番必要なもの、たとえば主食になる食糧がこの尺度になった時代もあったろうし、貨幣が発生してからのちでも、米や小麦は常にある意味で尺度としての役割を果たして来ている。しかし、食糧は第一にかさばるし、第二に長く貯蔵しておくわけには行かないので、物を買うのにいちいち米を担いで行くわけにも行かない。そこで誰にも必要なもので、耐久性があり、且つ稀少性のあるものがこの役割をつとめるようになり、たとえば毛皮が金として通用した形跡もある。その毛皮もいつも持って歩くのは面倒だから、その一部を切りとってサンプルとし、こういう毛皮がどこそこにあるからと言ってサンプルの毛皮でものを買う。毛皮のサンプルを受け取った人は、またそれを使って他の物を買う。そして、実際に毛皮を必要とする人が最後にサンプルを持って毛皮をとりに行くという形である。この場合、サンプルそのものにはもちろん値打ちがあるわけではないが、その裏付けをなす毛皮をいつでも引き取ることが出来るという社会的な信用があったればこそ、金として通用したわけである。
しかし、毛皮ではどうしても不便なので、そのうちに金属類が貨幣として採用されるようになり、ことに金、銀、銅が貨幣として通用するようになったが貨という字を見てもわかるように、その前に、貝殻が相当永い間、この役割を果たしていたに違いない。またかつて日本の委任統治地であった南洋群島で、大きな石の真中に穴をあけて金として使っていたことは有名な話である。
金や銀や銅が貨幣として使われるようになってからは、不便は大部分解消された。またこれらの金属は一般に稀少性があり、それ自体としても値打ちがあった。けれどもそれを運ぶのは非常に手間がかかるし、途中で盗賊に狙われたりする怖れがあるので、銀行の祖先とも言うべき両替屋では、金を預った領収書を発行し、その領収書を持ってきた人にはいつでもそれに記載されている額に相当する額渡すようにしたので、両替屋の領収書が金として通用するようになり、それが一般化して、ついに紙幣が金と見なされるまでになった。
紙幣そのものはもちろん、大した値打ちのないものであり、もし世間の人がそれを信用しなければ、一片の反古でしかない。その紙幣に値打ちが出来たのは、紙幣を発行している銀行が金地金を準備しておいて、いつでも紙幣を持参すれば、それに相当する量の金貨、または金地金と交換してくれたからである。この制度はつい戦争前までは世界的な風潮で、戦前の日本銀行券にもその旨明記してあった。
ところが金というものは、金地金の値打ちを反映する半面、物価をも反映する。経済が発達するにつれて生産が増加するのに金地金の生産がそれに伴わず、どうしても不均衡が生じてくる。その結果はデフレになって逆に経済を萎縮させたり、また国家が金不足のために破産するようなことが現実に起って来た。考えて見るまでもなく金地金の値打ちよりも、金で買える生活必需品の方が大切であり、それを作り出す経済社会の方が大切であり、また国家が破産しないことの方が大切であったから、ついには兌換を停止することぬり、紙幣は完全に金地金を離れて、今日私たちが使っているいわゆる不兌換紙幣になってしまった。資本主義という経済機構に多くの矛盾があることは事実であるけれども、それ以上に紙幣が金地金と直結していたことに矛盾があり、マルクスが資本主義社会の研究をした時代には、この両者がごっちゃになって、資本主義が今にも崩壊するような議論になってしまったけれども、紙幣がタダの名目貨幣、信用貨幣になってからは、この矛盾は全く形を変えた。これは非常に重要なことだと私は思っているが、今日の経済学者はあまり問題にしていないようである。
さて、紙幣が不兌換紙幣になってからは、紙幣の値打ちはその購買力、即ち物価から逆に算定するよりほかなくなった。今日でも紙幣は物の値段をはかる一応の尺度になっているけれども、その尺度をきめるものが実は物の方であるから話がややこしい。従って物価を決定するものは物の数量と紙幣の数量であり、この間に或る種の数学的な関係があると考えるのがいわゆる貨幣数量説である。しかし、紙幣の数量、即ち銀行の発行高が物価とどの程度の比例的関係を持つかはこれを正確に知ることは出来ず、いかに数学や経済学の天才が現われたところで、この問題を完全に解くことが出来るとは信じられない。
私たちが金に期待するのは、それが物を買う力を持っているからであるが、たとえば十年後に同じ金額の金がどれだけの物を買いうるかも全く予知出来ない。それを頼りにして生きているのだからいよいよ頼りがないが、そこがまた魅力で、少なくとも結婚前の男の愛の誓いよりは大分頼りになると思う人は案外多いかも知れない。