「無慈悲の人、養老[老ヲ養フ] - 養老孟司」文春文庫 涼しい脳味噌 から

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「無慈悲の人、養老[老ヲ養フ] - 養老孟司」文春文庫 涼しい脳味噌 から

高校卒業生は今年がいちばん人数が多い。来年からはどんどん減りだす。もう十年足らずのうちに、最低の谷を迎える。老人人口は逆にどんどん増える。このまま行くと、次の世紀には、若い人と年寄りの比率がおかしくなって、老人問題が厳しくなる。それはよくわかっている。要するに医療費高騰も年金問題も消費税も、すべて老人の増加に起因するのである。老人が増えたのは、医学のおかげもあるが、平和の継続と経済の発展に負うところが多大である。と、ここまでは官僚的な説明。
生物学的に言えば、生殖年齢を過ぎた個体には、もう意味がない。子供つまり遺伝子がもはや残らない以上、どんなメチャメチャな老人が発生しようが、進化に影響はない。その意味ではじつは老人ほど自由な存在はない。どうせ残り時間は少ないから、先行きの心配も不要である。ちゃんとものを考えるいまの若い人なら、将来を考えて、過激なことはしない。いまのままで世の中が推移すると、全共闘世代が老人になる頃には、老人だけが過激派になるかもしれない。野坂昭如氏などを見ていると、そんな気がしないでもない。
老人と言えば養生訓、養生訓と言えば貝原益軒。その巻第八は、養老[レ点付き-老ヲ養フ]である。私としては、読まざるを得ないが、残念ながら面白くない。老人はじっと静かにして極端なことをするな。怒ってはいけない。悲しみ嘆いてはいけない。葬式には関わるな。考え過ぎるな。口数を減らせ。早口でしゃべるな。大声で笑うな、歌うな。いくら老人とは言え、これではすでに、半ば死んだも同然という気がする。これで寿命を延ばして益軒はいったいどうするつもりだったのだろう。
江戸時代の人は長寿をどう考えていたか。大学・中庸・論語孟子で忠孝だから、当然長生きを褒めたたえたか。むろん、そんなことはない。これから白髪、さらにはおいおい腰が曲がろうという、私のような年寄り候補生が、消費税ではないが、先行きを考えて、若い者にむりやり「忠孝」を教え込んだに違いない。その証拠を長年探していたがとうとう見つけた。
沢庵和尚に『骨董録』という養生訓がある。その中に、寿命についての問答がある。ある人が沢庵に尋ねる。
「道にかなう人が長命なのでしょうか」
沢庵答えて曰く、必ずしもそうではない。大聖釈迦は、長くて八十の入滅である。孔子が七十三。聖人に次ぐとは言え、顔回は短命だった。もともと天命は、人によって同じではない。その上、天命を尽くさないで死ぬ者、少しは余計に伸びる者がいる。マァ、だいたいは、受けた天命分ほどを生きるのが、相場ではなかろうか。
この後はむしろ、原文どおりに引用しておく。私が作った文章ではない。念の為。
「八十まで生くべき天命あれども、その行悪しくして、早逝するもあり。行さまでほむべき所もなけれど、生まれ付き丈夫にして七八十までよく保つもあり。行悪しくして長命なるもあり。是もわがままに身をもち、人のために心神をくるしめず、人の辛労をかへりみず、我さへ苦しまずばとおもひて、心のゆるりとしたる人、必ず命ながし。是は無慈悲の人なり」。
忠孝どころではない。こういうことを言う出家だって、昔はいたのである。
孔子も一生道の行はれざることをやみて、漸く七十三にてはて給ひしが、今此頃も百余歳まで生くる人ままあり。ただ人の事を苦にもたずして、気の緩々なる人なり。物に苦をもち、急々にして義につのる人、長命なりがたし。身をころしても仁をする事ありと、論語にも見えたり」。
ほら見ろ。論語孟子と長生きは、どう考えても矛盾するのである。百歳以上が何人などと、老人の日に新聞は書き立てるが、忠孝と並び称された時代だって、坊さんがこんなことを書いていたではないか。大道廃れて仁義あり、仁義廃れて長寿あり。
「仁とは、人を愛りん[漢字]する道なり。心神をくるしめても、義を欠くまい、礼を欠くまいと思へば、行くまじき所へも行き、久しく居るまじき所にもをり、長座窮屈にくるしみ、風雨雪霜をもかへりみず、信のために心身をくるしましむ。是れみな道にたがふまじきとおもふ故なり。かくのごとくならば、道しるゆへに寿みじかきなり」
現代はこういう律儀な人が減少したから、平均寿命が延びたのではないか。ひょっとすると、医学も経済も養生訓も、長寿には無関係かもしれない。道を知る人はこういうわけで寿命が短いのだとすれば、まったく道を知らない人はどうなのか。
「土民百姓の、仁とも義とも知らざる者に、殊の外長命の者多し。是は心にかかることなくて、命のはゆる(伸びる)者なり。よしあしをしるから寿もつつまる」。
昔から、学を志すとは、容易なことではない。仁義礼智信忠孝を聞いてしまえば、寿命も縮まる。では、道を知り、それでも長生きする人はどうか。
「道はしりながら、道を曲げ、仁にも心をくるしめず、義にも礼にもくるしめず、ただ心のままにして、人のくるしみをおもはず、我さへくるしからずばとおもひ、人のいそぐにもいそがず、心のむくやうに身を持つ人は、一切の道にかまひなく、ただ心身安きをおもふ故に、命の何にちぢまるべき様なし。是によりてわがうけたる血気のつくるまで生くる物なり」。
私も老人予備軍だが、生き方を考えねばなるまい。どこでどうやって、この世を辞去するか、その専門家の坊さんが右のように言うのだから、皆さん自分のことは、適宜にお考え下さればよろしい。いまさら私の出る幕ではない。

(一九九〇年五月)