1/2「ボケるよりは安楽死がしたい - 新藤兼人」新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩 から

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1/2「ボケるよりは安楽死がしたい - 新藤兼人新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩 から

老人の健康は歩くことです、と医者に言いわたされ、毎日一時間弱歩いている。老人になった証拠は手脚が硬くなることだが、まずたいいちにアタマが硬直し、他人の意見を容易に聞く耳をもたなくなるのが特徴。しかし医者の忠告は小学一年生のように、ハイハイときく。
足が弱るといけません。ハイハイ。運動がにぶると筋肉が衰えます。ハイハイ。筋肉が衰えると血液の循環が悪くなりますな。ハイハイ。人体の諸器官が衰弱しますな。ハイハイ。脳のはたらきがにぶるとボケますな。ハイハイ。わかったら歩きなさい。ハイハイ。
もう古来稀れなりの七十はとうに過ぎているし、いつ召されようと悔いはありません、とか悟ったようなことをいってはいるが、この世に未練はたっぷり。ハイハイと歩いているしだいだ。
畏友三文役者殿山泰司が、はいさようならとあの世へ旅立ったのは七十三、タイミングはよかったようだ。これからはボケを待つだけだ。ボケては役者はつとまらないし、人に笑われて生きているより、チョン、と柝[き]をうって幕をひく。タイちゃんは仕合せもの。
散歩のコースは三つ。赤坂のテレビ局の裏あたりに棲息しているのだから、青山一丁目へ出て神宮外苑へのコース。第二は乃木坂通りを直進して青山墓地をひとめぐり。第三は同じく乃木坂通りをのぼって外苑東通りへ突き当り、左へ折れて防衛庁のほうへ向かい、六本木へ達してターン。
このどれかを選択するわけだが、これがなかなかやっかいなのだ。その日の気分、天気の具合、いろいろある。なにしろシナリオライターはデリケートだから、まえの日にコースをきめたりはできない。なぜきめられないか。それはですね、日ごろながい物に巻かれて生きていますから、せめて散歩ぐらい自由気ままに選びたいという.....。
きょうは乃木坂を乃木公園に突き当って防衛庁のほうへ向ってみよう。第三のコースだ。きのうは第二コース、おとといは第一、安楽死についてまとめたいのだが、ボケにさしかかったアタマは回転がにぶっている。編集氏が安楽死について書きなさい、と命令してきたので、安楽死の是非なんてだれも明確な解答はできないのではと、弱々しく反撥してみたが、あなた自身ボケたら安楽死したいの、したくないの、ときた。若い人の老人を見る目は、なべていたわりをこめているようにみえるが、実は、優しい微笑の奥に、おまえはもうボケかけているんだぞというトゲが隠されているのだ。そこで癪にさわって、ボケたら安楽死なんかいいんじゃないかのかな、と呟くと、それを書きなさい、ときめつけた。
乃木公園の石段を数えながら上る。彼女は待っているだろうか。上りきるとブランコと滑り台があって、狭っくるしいが一応公園らしく体裁は整えている。ある朝のこと、この石段を上がると、一隅の桜の木の下に老いたる猫が前肢をそろえて行儀よく坐っていた。近づいても逃げない、野良でない証拠だ、手をだして頭へ触ると、こすりつけるようにして頭をもたげた。黒に茶が混ったゴマシオ、いやシオではないか、茶だ、ゴマ茶とはいわないな、それじゃ松葉まぶしはどうだ。猫ぶりがまったくよろしくない。しかし、前肢のそろえ方といい、人を怯[おび]えるふうもなく、どことなく猫品があふれている。体形を見るとメス猫だ。
飼われていたにちがいない。彼女が、わが輩の手に頭をこすりつけてきたのは、わが輩の手から猫の匂いを嗅いだからであろう。わが輩の部屋には野良猫が三匹出入りしている。猫を飼いたいとは思わないが、マンションの部屋が一階なものだから、垣根の穴をくぐるぬけてやってきた。彼や彼女は、いずれもよく光る目をしていて、窓の外へきてきちんと坐り、何か余ったものでもないでしょうか、とじっとすずしい目を向けてくる。
このすずしい目にまいった。こちらはシナリオでアタマが濁りに濁り、なが年どうにか食いつないできたが、もう乾いたタオルのようにイメージはわいてこないのか、と半ば絶望的になっている矢先なので、野良ちゃんのすずしい目に出会うと、暑い夏に夕立ちをあびたような気分になる。わが輩にも灰色でないときがあったぞ、町で出会った少女の瞳に胸をとどろかせた日もあったんだ。
そこで、冷蔵庫からチクワを一本出して与えると、彼や彼女は当然のことのようにたちまち食らい、まだ何かあるだろうという気配だ。で、キャットフードを買ってくるようになり、テキは与[くみ]し易しとみたか、おそるおそる室内にはいり、大丈夫だと見るや、そこらへんに寝転がるようになる。だから、わが輩の手は、いや体から、猫の匂いがしており、猫から見れば、仲間に出会ったような気がしたことだろう。