「道頓堀罷り通る(其の四) - 坂口安吾」河出文庫 安吾新日本地理 から

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「道頓堀罷り通る(其の四) - 坂口安吾河出文庫 安吾新日本地理 から

阿倍野。これもターミナルである。国際マーケットから飛田遊廓、山王町を通り抜けてジャンジャン横丁まで、まさに驚くべき一劃である。飛田遊廓なるものの広さが、銀座四丁目から八丁目まで東西の裏通りもいれてスッポリはいりそうな大々的な区域であるが、これがスッポリ刑務所の塀、高さ二十尺余のコンクリートの塀にかこまれているのである。世道人心に害があるというので大阪の警察が目隠ししたのだろうと考えたら(そう思うのは当然さ。駅前や盛り場にバリケードをきずいて人間どもを完璧に整理しようというのだから)ところが、そうではなくて、往年の楼主が娼妓の逃亡をふせぐために作ったものだそうだ。そこへ関東大震災があって吉原の娼妓が逃げそこなって集団的に少子したので、大阪に大火があったら女郎がみんな死ぬやないか、人道問題やで、ほんまに。大阪市会の大問題となって、コンクリートの壁に門をあけろ、ということになった。その時までは門が一ヵ所しかなかったそうだね。刑務所にも裏門があるそうだが、ここにはそれもなかったのだそうだ。それ以来四ヵ所に門をつくって今に至ったのだそうだ。
私はしかしこの塀を一目見た時から考えていた。このバカバカしい壁をめぐらすコンタンを起こすのはここの楼主だけだろうか。その目的は違うにしても、大阪の警察精神が、こういう塀をブッたててスッポリ遊廓をつつむようなコンタンを最も内蔵しているんじゃないかナ、ということが頭に浮かんで仕方がなかった。大阪へ一足降りて以来、人民取締り精神というものがヒシヒシ身にせまって、どうにも、やりきれなかったのである。ここの警察は人民の友ではなくて、ハッキリと支配者なのだ。
飛田遊廓を中心にしてこの地帯はほぼ焼け残っているのだが、昔はたぶん安サラリーマンの住宅地帯であったろう。その家並は主として四五軒ずつ長屋になっている。その小さなサラリーマン住宅の殆どが旅館のカンバンを出しているのでなければ、産院であり、カンバンの出ていないのは、女給の下宿で、つまりモグリのパンパン宿であるという。辻々から軒並にたむろしているポンビキのオバサン連はそのへんへ連れこむもののようである。国際マーケット、飛田遊廓、山王町、ジャンジャン横丁、その全部の周辺、サテモ、集りも集ったり、誰に隠すこともなく、これ見よがしの淫売風景大陳列場。上野の杜とちがって、飲食店であり旅館であるから、逃げ隠れのコソコソという風情はない。飲食店の裏は全部旅館、時々産院で、その直結する用途は一目リョウゼンであり、ひしめく人間は彼女自身でなければポンビキであって、露骨そのものでもあるが、簡にして要を得ているな。そして又、人間がゴッタ返しているよ。
私はこの裏側の旅館へ一泊半したのである。さすがに裏側のうちでも最もしかるべき旅館であった。夜半をすぎるまで大いに飲み、翌朝また盛大な御馳走を卓上にひろげて大飲食し、この豪遊の大勘定がたった三千四百円でしたよ。つまりこの旅館では料理をつくらずジャンジャン横丁かそれに類する所から料理をとりよせるのである。自分のウチで料理をつくれば高くつくにきまっているから、そういうムダはしないのである。したがって出前の料理は一品十円か二十円、最大の豪華な皿や鍋でも三十円ぐらいのものだろう。安いッたッて、料理の品目はなんでめ出来らァ。タイのチリ鍋でもアンコウ鍋でも鳥ナベビフテキ何でもあらァ。ちゃんとそれぞれ見分けがつくのだなァ。食べる物には限度があっても、酒とビールははッきりしない物だからずいぶん飲んだはずだが、三千四百円には恐れ入った。チャンと入湯もできるし、二ノ間もついているのですね。実に裏町の大豪遊でありました。
戦後の日本では、たとえば銀座の一流店と場末の裏店と飲食の値段が殆ど変らないというのが一ツの特殊現象であった。六年たって表通りと裏通りの値段のヒラキは次第に大きくなりはしたが、大阪のジャンジャン横丁界隈の如きものは天下の特例であろう。もっとも、病気を貰えば、けっこう高くつくか。しかし、いかな私もここのパンパンやオカマと遊ぶ勇気はなかった。
大阪の新開拓者、檀一雄先生、すすんで案内役を志し、いそがしい仕事をほッたらかして、東海道を駈けつくる。彼はジャンジャン横丁で私のドギモをぬくコンタンであったらしいが、私の方は彼の到着以前に、ジャンジャン横丁どころか、その界隈の裏通りの旅館に一泊していたのである。この裏町の旅館街は檀先生もさすがに足跡いまだ到らざる魔境で、巷談師の怖れを知らぬ脚力には茫然たる御様子であった。