「月並礼讚 - 飯田龍太」中公文庫 思い浮ぶこと から

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「月並礼讚 - 飯田龍太」中公文庫 思い浮ぶこと から

さきごろ、毎日新聞紙上に、評論家の斎藤正二氏が、昨今の俳壇は(その低調ぶりは)まさに昭和天保と称すべきである - といった、たいへんユニークな意見を述べた。大方のところ、蒼?・梅室の徒の流行にひとしいというのである。
残念ながら私は、俳人のひとりとして自ら省みるとき、大筋のところ、この見解に同感。
もとっも氏は、二、三年前、矢張り同紙上に、短歌は戦乱の世に栄え、俳句は太平の世に適うもの、という、これまたたいへん面白い見解を披瀝したばかりであるから、その変異にいささか驚く向きもあろうかと思うが、元禄や天保とちがって、昨今のようにあわただしい世相の転換のさ中にあっては、二年三年という月日は容易ならぬ歳月。それを思えば、氏の発言を根もない変節と考えるわけにはいかない。氏の指摘する通り、いまの世の中は、充実と堕落がまさに膚接して推移している。流行と頽廃が同居しているといってもいい。
ただここで一考を要することは、元禄から明治に至る、かれこれ二百年の間に生まれた俳家のうち、目ぼしいところは芭蕉と蕪村と一茶ぐらいのもの、という大方の評価で十分かどうかという点である。
この点、正岡子規はたいへん気前よく歴史を斬って捨てた。そのために俳諧は俳句として新生し、今日の隆盛をもたらした。
むろんその功績は大きい。同時に現代俳人の大方は、古俳諧といえば芭蕉と蕪村、それに一茶を味つけする程度の知識があれば十分といった考えを抱かせる結果となった。したがって、その間に存在した無数の俳家については、それはもう現代俳人とは何の関わりもない存在で、その方面の研究は、専ら国文学者の(あるいは郷土研究家の)領域と考えている。
俳人ばかりではない。学者も史家も、この断絶について、一向頓着しないように見える。史実の収集に専心して、その俳家が、今日どれだけの存在価値を顕現すべきものであるかという点についてはあまり関心しないように見受けられる。したがって、俳文学と称する分野は、現代俳人にとって、全く異質の世界と見られ、学者自身もまたそのことに格別の痛痒を感じていないように見うけられる。
他人事ではない。私自身、古俳諧について、いまもってはなはだ不勉強であり、決して大きい口がきけたものではないのであるが、ただ、近代の秀れた俳人のなかには、月並出自のひとが意外に多いということだけは注目したい。
例えば村上鬼城とか久保田万太郎、あるいは川端茅舎といった人たちである。
もっともこのうち、万太郎を月並出自とするのはやや牽強附会のきらいがないこともないが、十二世雪中庵増田龍雨との交渉をみても、その俳風に一貫して流れる余技の詩情からしても、あきらかに子規以前の俳風を継ぐものである。
川端茅舎には、その父寿山堂の影響が終生つきまとった。彼の芸境を考えるとき、この点を除外してはなるまいと思う。虚子はその句集に「花鳥諷詠真骨頂漢」の語を冠したが、その諷詠に含む馥郁靉靉とした余裕と、高雅なおかしみは、単なる写生の徒でないことを証していると同時に、これまた万太郎と同じように、古俳諧に連綿する遊びの精神を体したものといえる。
村上鬼城の場合は、高崎における虚子との出会いによってはじめてその存在をあきらかにしたといわれる二、三の作はもとより、後年人口に膾炙した作品、例えば、

美しきほど哀れなりはなれ鴛鴦[おし]

など「これ予が句を作る初めなり」と自ら記している通り、その当初からあきらかに月並俳諧の影響が見られ、

冬蜂の死にどころなく歩きけり

生きかはり死にかはりして打つ田かな

等、すべてその一線上にある。

鬼城の場合は、万太郎や茅舎とちがって、多分に境涯的であり、より一茶に親近するものであることはすでに評家の指摘するところであるが、後年俳人として名を得、したがって生活も安堵すると共に、その芸境に生彩を失っていった最大の原因もまた、自己の大事な出自を忘れ去ったためと考えたい。この点、前二者は、生涯その俳風を貫いた。あそびの精神に徹した万太郎や茅舎の作品が、今日なお命脈を持し得ている所以もここにあろう。
大体、月並俳諧をたのしむ人のなかには、現代俳人とちがって、心底それが好きであったひとが多かったように思われる。格別芸などと考え、術と意識することなく、ただただ表現の妙をたのしむことに専心したのではないか。そこに徹し、更には独自の個性と創造に恵まれたとき、おのずから独特の風韻が生まれた。明治以前、俳諧史の上では空白とされる永い年月のなかに、そうした人が何人かあったのではないか。
昭和天保という指摘に同感する反面、私はまた、はたして天保はつまらね俳人ばかりであったろうかという疑問を捨てるわけにはいかない。
事実、田舎には、存外面白い俳人がいたようである。文学などという言葉からはおおよそ縁遠い俳諧師のなかに、作品としてはなかなか面白いものを遺した人たちがあったように思われる。いわば縄文土器が新鮮に見え、無名の職人の手になった古備前が現代著名の陶芸家の作品よりはるかに高い風韻と迫力を感じさせるように。
もっとも一口に古俳諧といってもいろいろあろう。あるいはまた、俳諧史の上でも、その転変はさまざまである。ことに享保の時代は特別ややこしいようである。芭蕉歿後僅か二十余年、素堂や来山、北枝等が相次いで歿するなかで、支考などを軸とする正風の争いはその頂点に達した。二十余年といえば丁度戦後の年月に符号する。この間、享保と同じように、多くの大家が歿した。俳壇は一面隆盛、反面争乱と頽廃の翳をまとっている。外面的には、昭和天保というよりはむしろ昭和享保の様相が濃いのではないか。
歴史は繰り返すという。いやな言葉である。