「ユダを迎えた闇 - 遠藤周作」集英社文庫 お茶を飲みながら から

f:id:nprtheeconomistworld:20191024064455j:plain


「ユダを迎えた闇 - 遠藤周作集英社文庫 お茶を飲みながら から

私はときどき聖書をイエスを中心としてではなく、その周辺の人間に重点をおいて読む場合がある。その折り、私の好奇心を最もそそるのは、大司祭カヤパとローマ総督ピラトと、そしてぺトロとユダである。特にユダは聖書の中でも最も奇怪な暗黒的な人物である。それはユダの心理が謎めいているだけでなく、彼に対するイエスの心理もさらに謎めいているからだ。そして彼とイエスとの関係が謎めいていればいるほど、この人物は我々のさまざまな想像をうずかせるが、この人物を論じたエッセイを私はカール・バルト以外にまだ読んだことがない(もしあったらぜひご教示いただきたい)。
エスを裏切ったユダは十二使徒の最初の一人だった。聖書はこの男について部分的にしか語っておらぬ。その出身はイスカリオテだと言うが、その場所がどこかは今日のイスラエル学者にも定説はない。ローマ時代の歴史家で歴史的にイエスの実在を書いたフラビウス・ヨセフスによれば、その出身地はカリツオと言うが、これも確証がない。聖書は - 特に聖ヨハネ福音書などは彼を嫌悪をもって無視しようとしているが、この男がイエスの生涯という劇でどんなに大きなわき役を演じたかは、聖書を読んだ者ならだれでも知っている。
ユダは最初の十二使徒の一人である。十二使徒というのは象徴的な言い方で、実際にはイエスのあとにはもっとたくさんの男女の弟子たちが従っている。聖書はイエスとユダとの最初の遭遇や、どのようにしてユダがイエスの弟子になったかは明確に触れていないが、我々が知りうるのは大体、西暦二十九年の初めごろ、イエスが弟子を集めた時、ユダは既にこの弟子群の会計をあずかっていたということである。
エスの弟子たちにはガリラヤ地方の出身者が多く、そのなかには熱心党に所属する者もまじっていた。熱心党とは過激な愛国団体とも言うべきどで、当時ローマに支配されていたユダヤの主権回復をねらい、ローマと妥協して堕落しているエルサレムユダヤ教大司祭派から純粋なユダヤ教を再建しようと考えていた連中である。いわば、今の日本の学生たちに似ている部分もある。
クルマンという聖書学者はぺトロもこの熱心党であり、ユダもその一人だったという説をのべているが、我々にはそれがどこまで本当かわからない。しかし、聖書を読むとイエスの弟子たちの多くは熱心党員と同じように反ローマ的、反大司祭派的な感情の持ち主であり、ユダヤをローマ人やそれとの妥協者の手から解放して、神の望む国を地上に樹立しようと志していたように思える。そして、そのために彼らはイエスの真意を誤解し、イエスを自分たちの夢で彩ろうとしていたと私は思う。言いかえれば弟子たちは地上王国の救い主(メシヤ)としてイエスを考え、そのあとに従っていたようである。
ユダが熱心党員か、どうかはわからぬが、この弟子たちの考えの代表者だったのである。そして、これは極端な言い方かも知れぬが、ユダという名称は一人の個人をのみさすのではなく、こういう弟子たちのなかの「地上王国」を希望する一群全体をもさしているのだと小説家として私は想像している。
これら弟子たちのイエスにたいする誤解は布教の間、かなり続いた。それは一つにはイエスに彼らの考えるような地上の主権者としての意志はなかったにかかわらず、自分が何者か、どういう救い主なのかをある時期まで曖昧にされていたためでもあろう。
いずれにせよ、弟子たちは自分たちの希望と師の真意が本質的にちがっているのを知った時、そこには動揺、幻滅、分裂が起こった。弟子たちのなかにはイエスから離れる者もあり、またそれでも従う者も徹底的に師の心がわかっていたとはいえぬ。このことはヨハネ伝、六章六十六節に明瞭に書かれている。
私の考えでは、ユダとその一味はこの幻滅を一番、味わった連中である。ユダはそれでもなお、最後までイエスのうしろをエルサレムに従った。そして、それに耐えきれず自分の夢を砕いた師を裏切って敵に売りわたしたのである。
エルサレムの衆議会と大祭司グループはその前からイエスを危険人物として、たえずスパイを派遣していたが、決定的な証拠がえられなかった。聖書に出てくるイエスと律法学者たちの問答はたんなる宗教問答というよりは、これらスパイがイエスから反逆の証拠をつかむための罠だったと私は思う。だが、イエスはたくみにその罠からすりぬけ、衆議会としては最後の決め手がなかったのである。
私はユダがこの決め手となる報告を衆議会に与えたと考えるのだが、その決め手となったものについてはここでは触れない。いずれにせよユダの報告は衆議会を小おどりさせ、イエス捕縛に踏みきるに決定的なものであった。
最後の晩餐でユダにむかってイエスが去れと言った言葉は我々には、一見つめたく聞こえるが、しかしその時ユダの裏切りもイエスは許し、それを十字架として背負われるつもりであったろう。このことについては私は既に自分の小説を通して書いたので、ここではのべぬ。
ユダという重要人物について聖書はあまりに簡単明瞭に書くのだが、その簡単な描写にはかえってふかい含みと生き生きしたイメージとがある。ユダが一人、最後の晩餐の家を出た時「外は既に闇なりき」とあるが、この闇というイメージほど、その時のユダの孤独感をあらわしているものはない。彼がやがて首をくくって死ぬ場面と、この闇とはあまりにも照応しているのである。