「キュープラー・ロスの五段階 - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

f:id:nprtheeconomistworld:20191028082240j:plain


「キュープラー・ロスの五段階 - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

「死」にたいする恐怖というのは、非常に複雑だといえる。「死」そのものもを恐れるというのもあれば、死の前に訪れる、いわゆる死線の恐怖もある。また、死ぬ前になる病気(それが結局は死につながる)である寝たきりや老人痴呆になるかもしれないという恐怖もある。なにしろ、死を経験した人は多いが、一度死んで生き返った人はいないから厄介である。
さきにも登場したが、アメリカのイリノイ州精神科医、エリザベス・キュープラー・ロスは、瀕死の患者が示す五つの段階を分類している。それによると、
①拒絶
②怒り
③取り引き(通常、神との)
抑うつ
⑤容認
の五段階を経るという。
これは、瀕死の状態でなくとも、死がさけられない段階になると、同じようになるのだとみられる。ただ、いつかは死ぬだろうというような、たとえば、動脈硬化が進行しているとか、心電図がかなり悪いといったようなときには、五段階の心境にはならない。というのは、こういう状態では、やがて命を落とすことがわかっていても、その時期がはっきりしない場合は、このような心境にはならない。しかし、手おくれのガンだとわかったときには、この段階を経るのが通常のようだ。
まず、死にたくないと思う。心理的なパニックである。ある一定の時期は絶望感に打ちひしがれる。何も手につかない。やがて、なぜ自分だけがこういう目にあうのかと思う。他の人はみんな元気なのに、自分だけが運命に呪われたように思い、おこりっぽくなる。そのうち、宗教心のある人は、神との取り引きに入る。宗教心のない人は、さらに苦悩することが多い。絶望感におそわれる。やがて自分のなかに閉じこもってしまい、抑うつ状態がやってくる。人と、ものをいわなくなり、何をする気もなく、一日じゅう、じっとしている。なんとなく考え込んでいる風である。やがて、容認というかあきらめの心境になり、それなりに落ち着くが、前向きにものごとを考えることはできない。そのうち、落ち着いて、少しは、ものごとを前向きに考えるようになり、結局、落ち着くところは「残された日々を毎日毎日、自分の良心にもとらない充実した日を送ろう」と思うようになる。そう考えるようになったときは、心の平静をとり戻しているわけである。
最初の段階から落ち着きをとり戻すまでの時間は、人によってちがうのはいうまでもない。なかには絶望感に耐えられなくなって、自殺する人もあるし、手おくれのガンだとわかってからも、三年も四年も生きることがある。そういうときには、“ひょっとしてなおったのではないか.....”と思うようになる。そうなると一時は覚悟していた死が遠のいていく感じがして、再発したときには、また第一段階からやりなおすというようなケースもある。
比較的早く安定した心境になる人のなかには、宗教を持っている人が多いことも事実のようである。その意味からいって、宗教の果たしてきた役割は大きかったが、だからといって、無理矢理に宗教に引きずり込んだり、“苦しいときの神だのみ”で急に入信するのもいかがかと思われる。神を信じない人は信じないなりの死の迎え方があるものと思われる。それについては、あとで考察するが、ここにきわめて興味あるデータがある。
それは、PL教団大阪病院が中心になって集めたものだが、ガンの末期で、現代の医学ではどうみても一年以内の命とみられた人で、二年以上生きている人たちを調べたものである。それによると、“予定”の二倍も三倍も生きることのできる人たちは、その大部分が生活上に何か大きな目標を持ち、それが完成するまでは死ねないと頑張った人たちであった。そのなかには、中企業の会社の社長をしていて、業績もよく、二部上場会社になるのが目前のところまできていたときに、手おくれのガンであることがわかり、本人もそれを知った。その社長は“何が何でも二部上場までは頑張る”と回りの人たちにいって獅子奮迅の働きをした。そして、念願かなって二年半後に二倍上場会社になった。別のケースでは末娘が結婚するまでは生きているのは親の義務だといって頑張った人も二年後まで生き、結婚式に出席した。しかし、二人とも目標を達してからいずれも2カ月以内に死んだ。“背水の陣”というのは馬鹿にならないということを示していて、私たちも考えねばならない点でもある。