「濃厚なつき合いはなるべくしない - 池田清彦」新潮文庫 他人と深く関わらずに生きるには から

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「濃厚なつき合いはなるべくしない - 池田清彦新潮文庫 他人と深く関わらずに生きるには から

「君子の交わりは淡きこと水の如し」とは老荘思想の一方の雄である荘子のコトバだという。私は老荘思想の何たるかはよく知らない。しかし、このコトバは人と人とのつき合いの要諦を突いていると思う。生まれたばかりの赤ん坊は、母親と自分の分別ができない。母親べったりである。赤ん坊にしてみれば、母親は自分の一部である。母親がいなければ赤ん坊は死んでしまうのだから、それはやむを得ない。だから、赤ん坊の母親への関与は淡々としているわけにはいかない。
母親の方から見ても、赤ん坊は普通、自分がめんどうを見なければ生きられないわけだから、淡々としているわけにはいかないはずだ。もっとも、たとえ母親が赤ん坊を見捨てても、母親の方は死なないわけだから、中には淡々とつき合い過ぎて、気がついたら赤ん坊は死んでいた、ということもないわけではない。母親と赤ん坊はそのつき合いにおいて非対称なのだ。生物学的に見れば、それは善悪の問題ではなくて、単なる自然現象にすぎない。多くの哺乳類や鳥類では、母親は誰に教わることもなく子供を育てる。母親を見失ったり、母親に死なれた子供は助からない。ひなを何羽も同時に育てる鳥類では、親は余りに発育の悪いひなにはエサをやらず見殺しにしてしまうことがある。もっと下等な魚類や昆虫では、親は卵を産みっぱなしにして、子供にはいなかる保護も与えないことの方がむしろ普通だ。肉食の魚では、自分が産んだ卵を他のエサと区別しないで食べてしまうものさえいる。
これらはみな、自然にそうなっているのであって、それ以外のやり方を知らないのだから、道徳や倫理とは無縁である。ひとり人間だけは必ずしも本能のみに従って子育てをしているわけではないから、母親に子育てをきちんとさせるために、様々な物語を作らざるを得なかったのだろう。物語を信じなくなった母親が増えれば、子供が育たなくなって社会は崩壊するから別の物語を作る必要が生ずる。夫も子育てに参加すべきだとか、子供は地域社会のみんなで育てようとかのキャンペーンの背景にはそういう問題があるのだろう。しかし、その話は長くなるのでここではしない。事実として重要なのは、人の赤ん坊はだれかに手とり足とりめんどうを見てもらわなければ、育たないということである。
しかし、認めたり、ほめたり、というのはほとんどの場合は所詮はフリだから、余り深くつき合うと、ウソであることがバレてしまう。深くつき合わなければ、自分は相手に認められているに違いないという自分の思い込みが破綻する恐れは少いから、幸せな気分でいられるではないか。君子の交わりは淡きこと水の如し、とはそういうことではないか、と私は思う。逆に言えば、ある程度認められていると思っている人は、他人と深くつき合わなくても、幸せでいられる、ということなのかもしれない。
そう思えない人はどうすればよいかって。一番尊敬できそうな友を見つけて、それとなくその人に、あなたのことは認めている、と言えばよい。余りしつこくしなければ、そのうち相手もあなたのことを認めているフリぐらいはしてくれるかもしれない。それでほんの少し幸せな気分になれれば、それでよいのではないか。くれぐれも、相手の心の中にずかずかと入っていくようなまねはしないこと。人間関係をわざわざわずらわしくするのは、おろかであろう。
酒を飲みにいって、水くさいぞ、もう帰るのかと言ってみたり、オレの言うことを信じろと怒鳴るのは下品だからやめた方がよいと思うし、そういう人とはなるべくつき合わない方がよい。帰ると言ったら、決して引き留めないで、じゃまた、と互いに言って、その瞬間に後ろを向いてスタスタ歩いている、というつき合い方がベストである。いつまでも手を振っているのははずかしい。女(男)と別れる時は別かもしれないけれど。
昔、胃がんが頭骨に転移して、余命いくばくもない虫友を見舞いに行ったことがあった。ひとしきり虫の話をして、じゃまた、と言ったら、またかあ、と彼は笑ってベッドから起きあがってエレベーターに一緒に乗り、病院の玄関まで送ってくれた。私は長期の虫採りに行く前で、もはや娑婆では会えないことを知っていた。恐らく彼もわかっていたと思う。玄関で手を振って歩き出し、しばらくして振り返ると、彼はまだ玄関に立ち尽くしたまま、はずかしそうに手を振ってくれた。何度も振り向いて手を振って別れるのは、こういう時だけでよいのである。
近頃はケータイとかeメールのやり取りをする、といったつき合い方が主流かもしれない。ケータイでいつも誰かとつながっていないと不安というのは、自立ができていない証拠みたいなものだ。マッチ棒は一本では立っていられなくとも、何本かくっつけておけばとりあえず立っているのと、似たような感じなのかもしれない。
しかし、どうでもいい情報をやり取りして貴重な時間を潰すのはもったいない、と私ならば思う。メールのやり取りで得る情報がなければ、生活する上で差しちかえがあるということは滅多にない。常にメールのやり取りをしていないと仲間はずれになってしまう不安があるのかもしれないが、それで仲間はずれにするような人とは、最初からつき合わない方がよいのである。
対人関係はなるべく希薄な方がよいのだ。濃厚なつき合いをすると、私のことを本当はどう思っているのだろうとか、嫌われるじゃなかろうかとか、私の悪口を誰かに言いふらしているんじゃないだろうかとか、色々余計なことが気になってくる。そういうことで神経をすり減らすのは賢くない。気のおけない無二の親友がいるというのは楽しいことかもしれないが、毎日会ったり、毎日メールのやり取りをしている無二の親友というのは気持ちが悪い。大方は二年もすればけんか別れをするのが落ちであろう。
友はいつ別れてもよいから友なのだ。最初から無二の親友がいるわけではなく、いつ別れてもよいのだ、ていう心構えでつき合っているうちに、結果的に三十年も五十年もつき合ってしまった、というのが無二の友の真の姿である。相手の生き方や生活の干渉をしない。聞かれもしないのに意見しない。自分の流儀を押しつけない。要するに、相手をコントロールしない、ということが他人とつき合う上で一番大事なことだ。他人をコントロールしたいのは権力欲の顕れである。コントロールする人がいれば、コントロールされる人もいるわけで、これは対称性に反することになる。誰にとっても自分だけは特別な人間であるし、そのこと自体は当然のことであって非難すべき理由はない。しかし、あなたにとって自分が特別なように、他人にとっても自分は特別なのだ。濃厚なつき合いをすれば対称性はどうしても崩れ易い。
互いに相手をコントロールしよう、されまいと葛藤が生じ、さりとて嫌われたり別れたりするのもいやだとのアンビヴァレント(二律背反的)な気持ちが生じ、心の平安は保たれない。なぜ、友とつき合うのか。身も蓋もない言い方をすれば、結局それは自分が楽しくなるためだろう。友とつき合って苦しくなったら損ではないか。友とはなるべく淡々とつき合おう。そういうつき合い方を望まない人とは、最初からつき合わない方がよいのだ。
大人になっても、だれかにかまってもらいたい、だれかにめんどうを見てもらいたい、だれかに甘えたい、というのは、だから赤ん坊の感性をひきずっているのである。赤ん坊と母親は非対称だから、赤ん坊はひたすら甘える身であり、母親はひたすらめんどうを見る身であるのはやむを得ない。しかし、大人になれば、自分と他人は対称であるから、自分だけ甘えたり、自分だけわがままを言うことはできない。自分が甘えると言うことは、相手の甘えを許すことであり、自分のわがままを言えば、相手のわがままも許さざるを得ない。
だから、他人に自分の心の中にずかずかと侵入されたくない人は、自分も他人に甘えてはいけないのである。
友人どうしで、実にべたべたつき合っている人たちがいる。買物に行くのも、ゴルフに行くのも常に一緒で、互いに相手のことをすべて知っているのを自慢にしている。人間は自分のことですらよくわからないのだから、まして相手のことなどわかるわけがない。こういう人たちに限って、相手が自分に無断で別の人と買物に行ったりすると、やれ裏切っただの、本当の友人だと思っていたのに、などと言ってギャーギャー騒ぐことになる。
人の心は毎日変わる。但し、自分に関してだけは、どんなに変わっても、自我は同一性を主張して、私は私だというわけだから、自分の心変わりだけは非難しない。他人に対して、あなたは前のあなたではないといって論難しても、そんなことは当たり前なのだから、非難する意味はないのだ。あなたの自我はあなたの脳の中だけにあって、他人の脳を支配することはできないのである。逆に考えてみよう。あなたの自我が他人によって支配されるとしたら、あなたはうれしいだろうか。
究極の所は、自分の心は自分だけのものであり、他人の心はその人だけのものである。多くの人は、自分のことを理解してもらいたい、認めてもらいたい、ほめてもらいたい、と思っている(らしい)。多くの人が言う理解してもらいたい、という意味が私にはよくわからないが(自分だって自分のことがよく理解できないのに、他人が理解できるわけがない、と私は思う)、後の二つはよくわかる。私だってそう思っているからだ。一番思っているのは、理解してくれなくてもいいから私の著書を買ってくれ、ということだ。