「偏奇館炎上(後半のみ) - 江藤淳」新潮文庫 荷風散策 から

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「偏奇館炎上(後半のみ) - 江藤淳新潮文庫 荷風散策 から

「嗚呼余は着のみ着のまゝ家も蔵書もなき身となれるなり」と、先生は嘆じている。
「余は偏奇館に隠棲し文筆に親しみしこと数れば二十六年の久しきに及べるなり、(中略)昨夜火に遭ひて無一物となりしは却て老後安心の基なるや亦知るべからず、されど三十餘年前欧米にて購ひし詩集小説座右の書巻今や再びこれを手にすること能はざるを思へば愛惜の情如何ともなしがたし、(中略)午前二時に至り寝に就く、灯を消し眼を閉るに火星紛々として暗中に飛び、風声啾ゝとして鳴りひびくを聞きしが、やがて此の幻影も次第に消え失せいつか眠におちぬ」と、
この日の『日乗』は罹災直後の先生の心境を記録している。
惟[おも]うにこのときを以て、永井荷風の文学生活は事実上終ったのである。この後先生は、五月二十五日に東中野のアパートで、六月二十八日には岡山で被災しているが、このときまでに先生の心もまた少からざる変調を示しはじめていたらしい。明石から岡山への逃避行に同行していた菅原明朗の夫人、永井智子が、七月二十五日付で杵屋五叟に送った手紙には、散人の姿が次のように描き出されているからである。

《.....永井先生はすっかり恐怖病におかゝりなりあのまめだつた方が横のものも建にもなさることなくまるで子供の様にわからなくなつてしまひ私達の一人が昼間一寸用事で出かけることがあつても「困るから出ないでくれ」と云はれるし食べた食事も忘れて「朝食食べたか知ら」などと云はれる始末ですこゝ四五日はいくらか良くなられた様ですが全く困つております》

偏奇館で独居していたあいだには、身だしなみの乱れにとどまっていた老耄[ろうもう]が「家も蔵書もなき身」となって焼跡に露出された瞬間に、一気に散人の心身を蝕みはじめたと覚しい。身体が衰弱したのではない。散人の心を支えていたある構造が、全く崩壊してしまったのである。
思えば偏奇館と万巻の蔵書こそは、荷風文学の象徴であった。散人は二十六年の間、この館に拠って文壇に超然とし、時流に眼をそむけ、妻を迎えることなく漁色の日々に耽った。「銀行の預金と諸会社よりの配当金」からなる財産が、散人の文学と自由とを支えていたといってもよいが、むしろ偏奇館という特異な空間のかたちを取った富こそが、荷風文学の源泉にほかならなかった。
その空間が消滅したとき、荷風の精神は死んだのである。荷風の精神は、敗戦によってではなく、空襲による罹災によって亡びた。その証拠に、彼は八月十五日の玉音放送を聴かず、「休戦」の事実を知ってもいささかの感慨をも示していない。当時彼は、勝山に疎開中の谷崎潤一郎を訪ねて二泊し、岡山へ戻る途上であった。

《八月十五日、陰りて風涼し、宿屋の朝飯、鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚つけ焼、茄子の香の物なり、これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり、飯後谷崎君の寓舎に至る、鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく購い置かれたるを見る、雑談する中汽車の時刻迫り来る、再会を約し、送られて共に裏道を歩み停車場に至り、午前十一時二十分発の車に乗る、(中略)新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及び牛肉を添へたり、欣喜措く能はず、食後うとうとと居眠する中山間の小駅幾個所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停車場をも後にしたり、農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る、午後二時過岡山の駅に安着す、焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎にかへる、S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、?も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ、》

おそらく散人は、玉音放送が行われた八月十五日正午の頃には、列車の車中で谷崎夫人の贈った弁当を貪り食うか、「うとうと居眠する」していたにちがいない。
その後九月一日に熱海に居を移した荷風散人は、翌昭和二十一年(一九四六)一月一日の『日乗』に、「今日まで余の生計は、会社の配当金にて安全なりしが今年よりは売文にて餬口の道を求めねばならぬやうになれるなり、去秋以来収入なきにあらねどそは皆戦争中徒然のあまりに筆とりし草稿、幸に焼けざりしをウ[難漢字]りしがためなり、七十近くなりし今日より以後余は果して文明を編輯せし頃の如く筆持つことを得るや否や、六十前後に死せざりしは此上もなき不幸なりき、老朽餓死の行末思へば身の毛もよだつばかりなり」と述懐している。
しかし、考えてみれば、先生はこのときはじめて売文によって生計を立てている凡百の文士と、同列に並ぶことになったのである。その先生の精神が既に亡び、創作力が涸渇していたのは皮肉というほかない。
もとより荷風散人は、昭和三十四年(一九五九)四月三十日まで在世しており、その死は孤独ではあったが、「餓死」どころではなかった。とはいうものの、つまるところ、先生はやはり売文の徒ではなかったのである。だが明治のブルジョアの家に生れた蕩児の文学には、売文の徒の文章には絶えて見られる絶妙な味いがある。その味いをたずねて、思いのほか歳月を費してしまったのは、売文に四十年間明け暮れして来た自分に、到底及び難い境地がそこにあるからに違いない。