1/2「罵る - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

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1/2「罵る - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

.....世界には無数の酒があります。私は酒飲みですからこれまで眼につき次第、手あたり次第に飲んで、誰のためでめなくひそかに研究をしてきましたけれど、まだまだ試してないのがたくさんあります。けれど、よく考えてみると、そのおびただしい酒のなかでも、あたためて飲む酒となると、グッと数が少なくなります。あたためて飲むのが常識や習慣になっている酒、または、あたためたらその酒の美質や特長がありありとあらわれてくる酒。そういう酒はめったにないのです。なるほどフランス人は“ヴァン・キュイ”といって赤ぶどう酒をあたためて飲むことがある。ラムは“グロッグ”といって、これまたあたためて飲むことがある。ウィスキーは“ホット・トッディー”といって、やっぱりあたためて飲む。けれど、こういう飲み方は寒い冬の晩とか、税務署へいったのでゾクゾクするとか、つづけて三晩女房の顔を見たので悪寒がしてしようがないとか、そういう夜に風邪ひきの予防薬代りに民間療法的に飲むものであって、ぶどう酒や、ラムや、ウィスキーはもともとあたためて飲むようにできている酒ではないのです。あたためて飲むのが常識とされている酒はすぐに思いだせるところでは、中国の紹興酒と日本酒ぐらいではないでしょうか。
私は酒飲みでもありますが、旅ネズミでもあります。自宅によほど威圧を感ずるからなのか、旅が好きなのか、それとも糸の切れたタコのような心の持ち主なのか、しじゅう旅をしています。外国へもでかけていくが、日本国内もよくでかけます。ことに釣りをするようになってからは、地方のあちらこちらに知りあいができました。道楽のつきあいは利害得失をヌキにしての友情ですから、それゆえ純粋で、しばしばファナティックになることはありますけれど、愉しいものなのです。旅をしていると、いろいろの愉しみがありますが、やっぱりその土地その土地で食べたり飲んだりする愉しみが一番大きいし、記憶が永続きするものであると思います。けれど、日本酒について申し上げると、すでにかなり以前から私は何の期待も抱かないようになっています。どこへいってもおなじ味の酒にしか出会えないからです。酒にはふつう甘口と辛口の二種の言葉が使われます。ずいぶん以前に灘の旦那衆の一人から、飲んで飲みあきないさけのことを“うま口”というのだと教えられて感心したことがございますが、そういう酒品のある銘柄に思いがけず出会うというよろこび、または期待というものを、とっくに私は放棄してしまいました。この県はダメだがとなりの県には××があるとか、そのまたとなりの県の山よりの町には○○があるとか、海よりへいったら△△があるというような期待もありませんし、知識もありません。知識を持とうという気力がそもそも湧いてこないのです。それでも私は宿に入るときっと夜は飲まずにいられませんから女中さんに全国的銘柄ではなくて土地出来の辛口を持ってきてちょうだい。“うま口”といっても女中さんにはわかってもらえませんから、無難なところで、“辛口”とたのむのですが、めったに出会えたタメシがないですナ。どいつもこいつもベタベタと甘くて、ダラシがなくて、ネバネバしていて、オチョコを持ちあげたついでに食卓までついてあがりそうなのばかり。飲んで飲みあきないどころか、徳利を一本あけたらそれでいきついてしまって、二本めを呼ぶ気がしないのです。ときどきそういう酒をすすっていると、ブドー糖のアルコール割りじゃあるまいかと思うことがあって、工場の裏口からブドー糖を山積みしたトラックが入ってくるところを想像することがあります。死んだ池島信平さんがいつかどこかでそういう光景を酒造工場で見かけたことがあるらしくて、よく私に話しておられました。だもんだから、よけい、想像が走ります。みなさんをあからさまに侮辱してこういうことを申上げているのですよ。
 
戦争中に酒造米が不足したのでそれをカヴァーするために日本酒にアルコールを添加してよいということになり、そのアルコールというやつが、何からとれたものやら得体の知れない先生方ばかりだったが、それで酒そのものがすっかり奇妙キテレツなものに成りさがってしまったのを、八月十五日の御一新があってもいっこうに改めることなく、酒屋も飲みスケも酔えたらいいんだ程度でつくりまくり、飲みまくり、以後今日にいたる。たいていの旦那衆と酒談義をすると、そういうハナシを聞かされる。きまりきまっておなじハナシばかりです。なにしろ大量生産方式を旨とするものだから酒造家のことを“メーカー”などと味気ないことをいう。大手メーカーとか、灘のメーカーとか。しかもそれを恥としないばかりか、むしろなかには“メーカー”と呼ばれることを誇りにしているヤツさえいるというじゃありませんか。レッテルにしかめつらしく“吟醸”だの、“嘉撰”だのと美しい凄文句[すごもんく]がならべたててあるのに当の旦那は“メーカー”だとおっしゃる。なんで“うま口”をつくらないのです。アマ口なら一本でいきついてしまうが“うま口”なら飲んであきないのだから商売としてもそのほうがいいのじゃないか。いまの醗酵化学の技術をもってすればやさしいことじゃありませんか。旦那衆にそうたずねると、やさしいことではないけれど、やってやれないことはないし、やればできるとわかってる。けれどこれまでの習慣をこわすのがこわい。メーカーも、小売店も、こわい。お客に味が変ったといわれるのがつらい。そこです。と、こう、おっしゃる。私にいわせると日本酒をここまで堕落させたのは、酒税局と、メーカーと、そいつらをそのままで許して黙って飲んでいる飲みスケども、つまり官民こぞっての責任であります。飲みスケどもはブドー糖のアルコール割りに慣れてしまって、ただもう酔って、タハ、オモチロイと口走り、こんな酒品のない酒が飲めるかとつきかえすほどの気概もなければ、自信もない。飲み屋へきたら酒はサカナにすぎなくて、ひたすら上役と女房の悪口をいうのに精いっぱいです。なかにはキザな吟味を並べるヤツがいるけれど、これまた聞きカジリが読みカジリかの半可通で、あくまでも自分の舌にたってモノをいうというのではない。銀座の名の通った店へいって薄手のオチョコでつがれたらそれだけのことでマヒしてしまう程度の舌でしかないのに、ヘリクツばかりこねたがる。味覚は主観にすぎず、偏見なのであるから、ブドー糖のアルコール割りだろうと、粒選り米の粒選り水の吟味嘉撰だろうと、そのときその場でうまく飲めさえしたらいいのだというマカ不思議な鉄則はありますけれど、それをその通りだと認めたうえで、なおかつ、にもかかわらず普通の銘酒というものはあり得るし、あらねばならない。あってほしいというのが私の立場です。