2/2「罵る - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

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2/2「罵る - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

味覚と嗅覚には無数の段階があります。記憶、経験、主観、偏見、演出、無数の要素によって好悪が一瞬に決定されます。どんな名酒、どんな名香水も、その日その日のお天気次第という不確定要因からまぬがれることはできないのです。けれど、よく考えて頂きたいのですが、もし不確定要因だけにたつならば、名酒というものも、名香水というものもあるはずがないのです。酒のいい飲み手、香水のいい聞き手といわれる人びとはおそらく無限の個なる不確定要因を飲みわけ、嗅ぎわけ、洞察しぬいたあげく、それらの一つ一つの酒なり香水なりのおかれる場所や時間のことを考えているにちがいないし、飲まれたりふりかけらるたりするときの、どういう経験や、教養や、人格や、好みを持つ人物たちがこれらの主人公になるのだろうかということについての研鑽があるはずでしょう。これらは容易にコトバに翻訳できるものではありませんし、形にして示すことができるものでもありませんから、ときどき私は、酒や香水のブレンダーというものは作家や彫刻家や音楽家よりもはるかに人間とか同時代とかを一瞬の直感でつかむことのできる狂人だと思って尊敬することがあります。作家がコトバでヘリクツをこねると、それが不可解であればあるほど有難がられるということもあって、しばしばたいそうな議論が起るのですけれど、ちょっと時間がたつか、その作家が死ぬかするとたちまち忘れられてしまうというのが現代です。けれど、酒や香水は鬼才や天才よりははるかに永く、広く、深く、舌なり鼻なりを通じてですが、男や女をとらえます。とらえていきます。そして、のこっていくのです。
“甘口”“ベタ口”“ウマ口”の話にもどりますが、私にいわせると、だいたい、甘いというのはあらゆる段階の味覚と嗅覚のなかで、もっとも幼稚なものではあるまいかと思うのです。おなじ甘いといわれる甘さのなかにも無限の変化があって、アンミツの甘さもあれば極上の玉露の甘さもあるでしょう。けれど、総じていえば、甘い味は舌をくたびれさせ、拡散させ、正体を失わせてしまう味です。ヘリオトロープを入れさえすれば日本では香水になったし、それがベスト・セラーになったという時代が永くつづきました。おそらくそれはミツマメ屋やアンコロ屋がいつまでも女学生の盛り場で繁昌するというのと一致しているはずであります。甘い酒が何杯も飲めないのはドブロクの弟分である甘酒がいくらショウガで殺してあっても二杯と飲む気がしないという事実をあげるだけで十分でしょう。日本の酒は戦中のアル添以来、一貫して総崩れに崩れて甘い酒ばかりつくってきましたけれど、歯ミガキ、ヘヤトニック、シャンプー、アフター・シェーヴ・ローション、オー・ド・トワレ、その他、無数の味や香りが、甘くない味、ひとひねりひねった味、革の手袋や森の苔や、そういうところに深いヒントを得ている含み味、かくし味、殺し味がこうもあっちこっちであらわれはじめ、歓迎されはじめるようになっているのに、いつまでも酒だけがブドー糖のアルコール割りでやっていけるものでもないでしょう。
 
あなた方は怠慢だったのだ。酒を作りさえすれば売れるというので、いい気になっていたのだ。古きを学ぶが新しきも知る。温故知新の精神を捨てたままでいたのだ。だから気がついたときには某ウィスキーの黒い、撫で肩の、口のところが赤い瓶にスシ屋、割烹、小料理屋、お座敷、おでん屋を問うことなく総ナメにやられてしまい、いまや、野球が日本のナショナルゲームとなってしまったようにウィスキーがナショナル・ドリンクとなってしまったのだ。これ、ことごとくあなた方の怠慢のゆえである。世界でも稀有な特質と美質を持つ日本酒をあなた方はアクビ半分で商売してノウノウとしているうちに、飲みスケはバカだれど正直だ、時代の味を見ぬいたウィスキーにコテンとやられてしまったのだ。そういう古今未曾有の事態を招いてしまっていながら日本酒屋の反撃、反攻がいっこうに見うけられないのはどうしたことでしょうか。あなた方が誇りを忘れてしまっているらしいという気配はとっくにあらわれていたけれど、いまや恥を感ずることもできなくなったのでしょうか。売れたらいいという精神で、その程度の心を“精神”と呼べたらのハナシですが、そういう心でやったものだから世界でも稀有な日本酒をあなた方がこういう状態に追いこんでしまったのだ。私のところにはときどき外国人が遊びにきますし、その人たちはうまい酒なら何でも飲むという開けた心と舌を持っていますが、はずかしいけれど私は彼らにどんな日本酒をすすめていいのかわからないので、ウィスキーをだしてしまいます。何といったって、これは恥ですけれど、どうしようもない。
どんな家に住んでいるか見たら、その人のことがわかる、というコトバがあります。どんな友人を持っているか。それを見たらあなたがわかるというコトバもあります。どんな本を読んでいるか。それを見たらあなたがわかるというコトバもあります。こうかさなってくると、どんな酒を飲んでいるか、それを教えてくれたらあなたがわかる、ということもいえそうです。いささか誇張は感じますけれど、まずまずそういっていいのではあるまいかと思うのです。けれど、率直にいって、いささか酒をたしなみ、いささか人生についてわきまえるところがあり、いささか人間性について知るところがある人、そういう人にむかって私は台所にある平均的日本酒をさア、どうぞといってすすめる気にはとてもなれないのです。そのことをはずかしく思います。けれど、こんな三文酒を飲んでいるのかと思われたくない虚栄心があるし、二、三の地方の県にははずかしくない酒もつくられているということを私は知らないではないけれど、ただそれらがいかにも特殊例外的でありすぎ、稀少でありすぎる、そして、私の自宅の台所に存在しなさすぎるという理由から、結果としては、ウィスキーをすすめてしまうということになります。現代はどんな意味でも恥を知らない時代ですけれど、あなた方がとりわけオトコとして、ドリンカーとして恥を忘れてしまったので、こういうことになります。

日本酒の酒造家ばかりのある集りでおおむね以上のような骨子で講演をした。いいたりなかったことをちょっと補い、いいすぎたことをちょっと削って要約して書いてみたらこうなったのだが、その夜、あるお座敷へいって聴衆の一人であった伏見の旦那にそれてなく意見をたずねてみたら、“叱りかたがたりない”といわれた。