2/2「死を憎まば、生を愛すべし(吉田兼好の死生観とその普遍性) - 中野孝次」文春文庫 清貧の思想 から

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2/2「死を憎まば、生を愛すべし(吉田兼好の死生観とその普遍性) - 中野孝次」文春文庫 清貧の思想 から

この段についていろいろな人がいろいろなことを言っている中で、わたしに最も親身な意見と聞こえたのは、亡き上田三四二が『俗と無常-徒然草の世界』(講談社)の中で言っている言葉であった。上田はこの段の最初についてこう言う。

このような言うとき、兼好は、あの、うちに純粋の時間を湛えた透明な一本の筒になった自分を感じている。夾雑物[きょうざつぶつ]を排除し、副次的なものを選別し、のみならず、およそ内容というもののいっさいを汲みつくしたあとに残された透明な筒の、その一種空虚な体感を、彼はこのうえなく確実でこのうえなく純度の高い生の手触りと感じているのである。

これは『徒然草』の言葉を本当に自己の体験を通して語る人の言葉だと思われる。
上田三四二は医者で歌人で作家だが、四十代にガンに冒され、それは克服したものの後にまたガンが再発して手術を行い、生と死との問題に早くから思いを凝らして来た人だった。彼にとっては『徒然草』の言葉は、彼の最も大事な関心にじかにつながるものだったのである。
彼の最後の小説『祝婚』(新潮社)に、死を身近に控えていま生きている感覚をこんなふうに描いている。ガン手術後のからだで従兄の娘の結婚式に参列するため京都にゆき、たまたま花の下を歩く場面である。

だが二十歳を出たばかりで戦死という籤を引いた従兄の不運を思えば、六十年は一生と呼ぶに充分な長さではないか。人はそれぞれ、そう生きるよりほかはないさだめというものがあるのであろう。彼は前立腺をうしなあ、膀胱をうしなってようやく購った残りの生を、悔むことなく、強がることもなく、ありのままに、感謝をもって受取ろうとしていた。残された日の量[かさ]は測りがたかったが、一日生きれば一日余禄であり、恩寵であった。彼は黄金[きん]のように重い一日一日を、踏みしめ踏みしめて坂をくだるその一歩一歩のように、味わって生きようとしていた。

このように書いたとき上田三四二はまさに『徒然草』のあの、「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」を最も純粋に、最も充実して味わっていたのだと思われる。彼はこの小説を書いたあとまもなく死んだが、彼の最後の日々の充実をわたしは信じて疑わなかった。
徒然草』の鋭い認識と思想とはこのように、現代人にまで強い影響を与える力があるのである。それだけ認識が透徹していて、思想が力強いのだ。ましてや江戸期の文人たちにとっては、これはかれらの生への態度を決定する指南書のような古典であったに違いない。兼好は世捨て人ではあったけれども出家ではなく、市井に住むただの人ということでは江戸の文人たちと異らなかった。そういう人の思想であるからなおさら共感を呼んだのだと思われる。
いまは無形の価値というあやふやなものでは満足出来ないかのように、すべてを数字であらわさないと気がすまないらしい。子供の学習能力も絵画の価値もゆたかさもみな数字に換算し、数字の高いほどいいとするふうだが、平均寿命何十歳などといっても、それがただ肉体的生命の延命だけを意味するなら。一体それに何の値打があろう。一つの生が真に充実していたかどうかは、内に満つるものによってしかわからず、それは数字などとまったく無縁なものだ。

在りがたきいのちのありてあふぐそら天日は煌[くわう]人[にん]身[しん]は恍[くわう]

閑日[かんじつ]をあらしめたまへ一日[いちじつ]を両日[りやうじつ]として生かしめたまへ

最後の手術のあとの日々を上田三四二はそんなふうに歌っているが、社会的活動は何一つ出来なくとも、その日々の時間はつねにこのようないのちに満ちていたのであった。それはスケジュール表に従って分刻みの多忙な生を送る人には想像の出来ぬ種類の充実である。生きて命あるという時間が、数字で測られる時間とはまるで違う次元から測られ味われているのだ。
 
尾崎一雄の大患後の小説にも、またそういうときのありがたさを描いたものがある。
尾崎一雄は戦争中に大喀血して以来ずっと寝こんだままで生死の境をすごし、戦後かなり経ってようやく回復した。そのときの心境を『美しい墓地からの眺め』という小説にこう書いている。

よく晴れた日の、風も穏やかな午後一時二時、といふ時刻が、緒方にとつては「幸福の時」ともいふべきものであつた。さういふときは、発作が起るおそれ[難漢字]がない。大きい声を出しても胸に響かない。息切れもしない。だから自然と持前の大声になってゐる。
緒方は寝床から起き出し縁側に出る。煙草に火をつけ、うらうらとした陽ざしの中へゆつくりと煙を上げる。激しい勢で若葉が吹き出してゐる庭前の木や草をしげしげと眺める。「俺は、今生きて、ここに、かうしてゐる」かういふ思ひが、これ以上を求め得ぬ幸福感となつて胸をしめつけるのだ。心につながるもの、目につながるものの一切が、しめやかな、しかし断ちがたい愛惜の対象となるのもかういふ時だ。

ここにあるのも、長いあいだ死の間際にあった人の、死の上に浮ぶ危うい生の、その生きてある一刻一刻を心の底からありがたい時と味わっている姿である。『徒然草』の「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」を尾崎一雄は「俺は、今生きて、ここに、かうしてゐる」と現代の言葉であらわす。ここにある生の認識、生きてあることへの感謝は、時代を超えて完全に一つの同じひびきを発しているのである。「存命の喜び」という言葉を思いだすとき、わたしはまっさきに尾崎一雄のこの文章を思い出し、上田三四二の花の下を歩く文章を思いだした。人間の生きてある今がこれほど深いところから味わわれることはほかにはない、とそのたびに思った。これにくらべたら、自分をふくめてふつうの健康な人は、なんとぞんざいに生を浪費していることか、とも思った。

蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賎しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝[い]ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
身を養ひて、何事を待つ。期[ご]する処、ただ、老と死とにあり。その来る事速[すみや]かにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん(第七十四段)

兼好もまた尾崎一雄上田三四二と同じ深みから、慌しい世間の人の営みを眺めていたのである。わたしはここに一国の文化の底を流れる深い底流といったものを感じる。兼好は十四世紀の文人だが、その書いたものがずっと読みつがれ、思想が伝えられて、二十世紀の現代人の心にひびきあう。これはほとんど奇蹟のようにも思われるし、またそれが起るのが文化というものだという気もする。真実の認識には時代がない。その時代を超えた普遍性をもつものこそが、文化の名に値するのである。『徒然草』は過去のものではないのだ。
病は人生の大きな挫折であるとするなら、その挫折を体験することによって、自分が生きてあるというそれまで当り前のこととして受取っていたものの価値を発見する、挫折した体験のない者は生涯その価値に気づかないかもしれない、というところに、生の逆説的な秘密があるようである。