「私の見た大阪および大阪人(一部抜き書き) - 谷崎潤一郎」岩波文庫 谷崎潤一郎随筆集 から 

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「私の見た大阪および大阪人(一部抜き書き) - 谷崎潤一郎岩波文庫 谷崎潤一郎随筆集 から 

大阪がさように旧慣を重んずることは、親譲りの財産に対してもまた執着が強いことを意味する。私などその辺のことは一向不案内だけれども、東京方面の小市民階級が時勢の波に押し流されて続々転落するらしいのに、大阪にはまだまだ根強く持ちこたえている中流資産家がザラにあるように思われる。船場あたりの古風な狭い町筋を歩いてみても、滔々[とうとう]たる大資本主義の風潮に抗して個人経営の商売をしている家が多いのに気が付く。
東京の下町には、いわゆる「敗残の江戸っ児」という型に当てはまる老人がしばしばある。私の父親なぞもその典型的な一人であったが、正直で、潔癖で、億劫[おつくう]がり屋で、名利[みようり]に淡く、人みしりが強く、お世辞をいうことが大嫌いで世渡りが拙[まず]く、だから商売などをしても、他国者の押しの強いのとはとても太刀打ちすることが出来ない。そんな工合で親譲りの財産も擦[す]ってしまい、老境に及んでは孫子や親類の厄介になるより外はないが、当人はそれを少しも苦にしない。無一文の境涯になったのを結句サッパリしたくらいに思って、至って呑気に余生を楽しんでいる。そういう老人は大概痩せていて、脚が強く、日に一里二里の道を歩くことを苦にせず、五十銭が一円も小遣いをやればそれを持って浅草あたりへテクって行って、活動を見るとか、鮨の立ち食いをするとかして、半日を愉快に過す。酒も好きだが多くを嗜[たしな]まず、一合の晩酌に陶然として、酔えば機嫌よく世間話をし、直きにすやすやと寝てしまう。ハタから見ると何を楽しみに生きているのか分からないといいたいが、当人は天成の楽天家であるから、決して世を拗[す]ねたり他人の幸福を嫉[ねた]んだりしない。自分は勿論、骨肉の者の死に遇っても騒がず嘆かず、何事も定命[じようみよう]としてあきらめる。その代り親類間の争いとか、一家内の不和とかに関係することをうるさがり、自分だけはいつも超然として誰とでも調和する。従って子供たちにも親類にも邪魔にされず、また他人に迷惑になるような無心もいわず、ほんの僅かなあてがい扶持を貰うことさえ気の毒がって、小学校や区役所の小使いをして、あいまに将棋をさしたり碁会所へ通ったりするのもある。そういう老人が東京の古い家なら、一家一門の間に必ず一人ぐらいはいるものだ。私の父親程度の年配には殊に多いが、近いところでは辻潤なぞもまあそのタイプだといっていい。悪くいえば生存競争の落伍者であって、彼らが落伍したのはぐうたらで働きがないという欠点にも依るのだけれども、見ように依っては市井の仙人とでもいうべき味があって、過去はともかくも、そこまで到達した彼らに接すると、大悟徹底した禅僧などに共通な光風霽月[せいげつ]の感じを受けることがある。ところで私は、大阪へ来てからこういう老人に出遇ったことがない。此方の友人に聞いてみても、そういう性格は関西には甚だ稀であるという。
此方には「欲惚け」という言葉があるが、これは東京にはない言葉だ。つまり大阪には儲けよう儲けようとあせった結果、慾に眼が眩[くら]んで料簡がさもしくなり、根性が卑しくなり、遂には世人の爪弾[つまはじ]きを受けて落伍する、というようなのが多いのであろう。実際大阪人が「無一文になる」ということを恐れる程度は到底東京人の想像も及ばないものがある。東京人は自分が無一文になることを欲しないまでも、前にいった老人のような境地を理解する余裕があるが、大阪人には全く分らないらしい。彼らはそういう境涯に落ちるのがただもう一途に恐ろしく、たまたまそんな老人に遇えば馬鹿か気違い扱いにして、相手にしないらしい。
十九世紀の仏蘭西の写実小説を読んだ方々は、仏蘭西人がいかに財産というものを重要視しているか御承知であろう。バルザックやフローベルやゾラの如き大作家は、必ず作中の人物の経済状況を書くことを忘れない。たとい浪漫的なる恋愛物語であろうとも、その主人公なり女主人公なりを紹介するに方[あた]っては、父の遺産が幾ら幾ら、伯母ね遺産が幾ら幾ら、それらから上る利息が年に幾ら幾ら、だから一カ月幾ら幾らの収入があって、そのうちこれこれの方面に幾ら幾らの支出があって、差し引き幾ら幾らの余裕があって、.....という風に、実に念入りに書き立てる。時には三、四代も前に遡って、何某伯爵の何万何千フランの資産がその死後何万何千フランだけ何某侯爵に譲られ、侯爵の死後何某に遺され、次いで何某の手に渡り、.....と、遺産の歴史を、家重代の宝物の来歴のように細々[こまごま]と説明する。大阪人の「財産」に対する観念が丁度それなのだ。分家は本家から幾ら幾らを分けて貰い、それを資本にして幾ら幾らの商いをし、幾ら幾らの動産不動産を作り、その子供が、兄は幾ら幾ら、弟は幾ら幾ら、姉娘の嫁入り支度が幾ら幾ら、と、中産階級の人々はそんなことばかり考えているらしい。従って少年少女の時代から損得の計算に鋭敏であり、「金」についての神経が発達していることは驚くばかりで、東京の中学生や女学生はその点になると全く無能力者だといっていい。この間或る新聞に某百貨店員の談話として、東京の婦人連はレジスターの請け取り票を目もくれないでその場に捨てて行くが、大阪の婦人連は十中の八、九まで大切に持って帰る、という記事が出ていたのは、恐らく間違いのない事実であろう。