「豆腐談義 - 邱永漢」中公文庫 食は広州に在り から

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「豆腐談義 - 邱永漢」中公文庫 食は広州に在り から

どこの国の料理でもそうだが、シナ料理でも正式の宴席になると、料理の出し方に一定の順序がある。たとえば冷盆[ランプン]、つまりオードブルにはじまって、スープ、鶏料理、その後に海老、豚肉、鮑魚[あわび]、牛肉などをはさんで、炒飯になる前に、魚とまたスープの料理が出る。西洋料理とは魚と肉が逆になっているが、ご承知のように、シナ料理は十人前後で同じ一皿のものをつつく仕組みになっている関係上、料理の皿数が比較的多い。ふつう、私の家で客をするときには十二品にきめているが、人によっては十六品、いちばん多いのは田舎地主の宴会で、三十二品というのがある。私の場合は、その日の菜単[ツオイタン](メニュー)に来客の名前を書いておき、同じ人がその次に来たときに重複しないように、半分ぐらいは料理を変えることにしている。
菜単をつくるにあたっていちばん苦労するのはスープから魚に至るまでの料理の配列の仕方であって、スープの次に出る鶏が炸子鶏[ツアチイカイ]のような揚げ物の場合には次に清炒蝦仁[チエンツアウハアヤン](海老のグリーンランド炒め)のように口ざわりの柔らかいものをもってくるし、鶏が白切鶏[パツチツカイ]や塩?鶏[イムコクカイ](鶏の塩蒸し)のような淡白なものの場合には、次に大良野鶏巻[タイリヨンエイカイキユン](ハムと豚肉の蒸揚げ)か炸珍肝[ツアウツアンコン](鶏のレバーの空揚げ)のようなしつこい味のものをもってくる。それから喉の渇きを防ぐために、またスープへ戻り、その次には単調さを破るために刺激の強い回鍋肉[ウエイオーヨツ](豚肉の辛子炒め)とか姜葱牛肉[キヨンツオンガウヨツ](牛肉の生?炒め)などを配し、その後で、魚の料理、窩麺[ウオミン](しるそば)、炒飯、そして、最後に、?湯[テムトン](甘いスープ)になる。甘いスープはそれまでに食べた油っこいものをきれいに洗い落とし、口の中をさわやかにするためだから、この目的のためには甘さ加減に心をくばる。
この順序をうまく工夫すると、あんなにたくさんの料理が、と思っていたのが不思議とぐあいよく腹の中におさまってしまう。私の父は家庭においても、料亭に行っても、自分が言いつけた順番に料理を出してこないと、「おまえは足のほうから先に生まれたのか」と文句を言っていた。食い盛りの子供時代に私はいささかけげんな面持ちで、父のことばを聞いていたが、胃袋の容積がだいたいきまってからはなるほどと思うようになった。「すべて物事には順序がある」という考え方を私は胃の腑で覚えたことになるらしい。
ところが、この順序なるものはもともと人間がつくったものであるから、これに反逆を試みることもできれば、全然無視することもできる。たとえば、スープならスープばかり先にすすり、あとで固形物ばかり押し込む西洋料理のマナーを無視して、日本料理の流儀でいっしょに並べておいて好きなときに代わる代わる食べたら、どんなにうまく味わうことができるかしれないと思う。その意味では私は無手勝流のやり方に反対ではない。「昔は棺桶の心配は子供がしたものだが、いまは自分でしなければならなくなった」老人たちの悲哀を、かつて私は老人の立場から小説に書いたことがあるが、家族制度が崩れていく過程にだってその必然性があるはずである。それと同じように、今後、料理の世界にだって「彼は昔の彼ならず」ということが起こりうるだろう。その場合、私は「長幼序あり」などとしかつめらしい立場からではなく、あくまでも合理主義の立場から是非を判断したいものだと思っている。
たとえば、シナ料理というと、日本人の頭にまず浮かんでくるのは、魚翅[イーチー](鱶[ふか]のヒレ)や燕窩[インオウ](燕の巣)などの珍しい食べ物ではあるまいか。珍しいがゆえに貴いと考え方は中国における伝統的思想のひとつで、「山珍海味」ということばで端的に表現されている。ところが山珍にしても海味にしても、昔は主として地理的な距離と大きな関係があった。そういえばシナ料理の重要な材料である魚翅、海参[なまこ]、鮑魚、干貝、などはすべて日本の原産であるが、その料理法が普及していないのみか、この事実さえ案外知られていないのではあるまいか。また燕窩はシャムに最も多く産するもので、これは燕が海中のある種の微生物を食べて戻ってくると、ちょうど、酒に酔っぱらったような状態になって唾液を流し、それが固まってできるものだとされている。白い寒天をくずにしたような感じのもので、よく見ると、燕の産毛が無数に混じっている。それ自体には味がないので、調理するときは鶏のスープを使わなければならない。燕窩は漢方によると、健脾、潤肺、養顔、一言でいえば強壮剤的効果があるといわれているが、それが南海の僻地に産する、きわめて入手しがたい品物であるために、あんなにも貴重視されたのではないかと思わざるをえない。昨年の十一月だったか、私の家で、燕窩をメニューの二番目に出したことがあるが、当日の客はいずれも口のおごった人たちであったにもかかわらず、とくに話題にのぼるほどのことはなかった。
戦争中、ドイツ軍がモスクワ付近まで攻め込んで行きながら、冬将軍に襲われて敗退した話を聞いて、私の悪友たちはそれになぞらえて戯れに中国を距離将軍と呼んだものである。中国は面積も広いが、国全体が高等動物のようにはできていないから、心臓部にあたる上海や南京を占領されても、他の部分が個々別々に生きている。「皇軍百万」程度では重慶にすら足を踏み入れることができなかったが、かりに重慶を捨てざるを得なかったとしても、「ここまでは昆明」の雲南省をまだ後に控えていたのである。こうした距離の遠さが中国における烹?芸術の傾向のひとつと密接に関係があったわけであるが、この距離を人間の力で克服できなかった時代には、西洋でも同じような傾向が見られた。そのひとつがマンゴスチンで、まだ飛行機が発明されなかった時代にはロンドンでこの南洋の珍味を味わうことは不可能だった。無事これを届けたら勲章ものだととりざたされたが、クイン・ヴィクトリアはついにその好運にめぐり合わずじまいだったそうである。
しかし、今日のように地球が狭くなってくると、「山珍海味」ということばがその本来の意味を失ってしまう。バンコクから香港までわすが数時間で来られるし、現在、鱶のヒレは日本のほかに、アフリカとオーストラリアから送られてくる。人によっては日本産の鮑魚よりも、メキシコ産のほうがよいという者さえある。おかげで私のような貧乏書生までが、あれこれと偉そうなことをいうようになったが、さて、そうなると、高いもの、珍しいものばかりがうまいものでないという考え方がとかく頭をもたげてくる。
前章でもふれたように、中国人のあいだでは昔から「不時不食」といって季節のものでないと食べないという考え方があるが、この考え方は地球上の季節に大革命でも起こらないかぎり、将来も変わらないにちがいない。温室育ちのものを念百年じゅう食べているよりも、たしかにその時々のものを口にするほうが変化に富んでいてよいが、それにしても「不時不食」の制約を受けない食べ物はないだろうか。あるとき、食卓でそんな話題が出たら、友人の一人がたちどころに、
「そりゃ豆腐だよ」
と答えた。なるほど、豆腐なら、夏食べても、冬食べてもうまいし、料理の方法も多種多様である。
伝説によると、豆腐はジュン南王劉安によって発明され、中国では三千年の歴史をもっているそうだが、不思議なことに西洋にはないらしい。それでいて西洋人に食べさせると、十人が十人までまずいやな顔はしない。国民革命の元老李石曾は有名な菜食主義者で、今から四十年ほど前、パリで生活に困り、豆腐を売って糊口をしのいだことがあったが、パリッ子のあいだに多数のファンをつくったそうである。
現在、日本で売っている豆腐は日本の水がよいせいか、中国でできるものよりもおいしい。ことに絹漉[きぬごし]豆腐はすばらしい。ただわれわれが子供のころ、蜜をかけて食べた柔らかい水豆腐と、逆に芹菜[カンジオイ](セロリー)といっしょに炒めで食べたりした豆腐?[タウフウヨン]、つまりかたい豆腐がないのはちょっと寂しい気がする。
豆腐は中国でも家庭の常食として賞用されているが、いわゆる粗菜に属し、正式宴会には顔を出さないことになっている。
「しかし、君、豆腐は料理の仕方によってはけっして平凡なものではないよ」
と友人に言われて、私も大いに共鳴するところがあった。だから、この次にメニューをつくるときは、?皮豆腐[ツウイペイタウフウ]か、太史豆腐[タイシイタウフウ]を仲間に加えてやろうと思っている。ただし、そのときは上海人の客はよばないつもりである。なぜならば、上海語で俗に豆腐といえば、あたりさわりのない話、考えようによっては心にもないおせじを聞かされることだからだ。