(巻二十四)紫の匂袋を秘ごころ(後藤夜半)

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(巻二十四)紫の匂袋を秘ごころ(後藤夜半)

11月18日月曜日

まだ義母が存命のころ大阪に出張し、何か土産と思い“匂い袋”を買いました。義母はもう五感のほとんどが働かなくなっておりましたが嗅覚はまだあるという容態になっていたのです。
細君が鼻先に匂い袋を寄せますと、反応したそうです。しかし、その匂いを快く感じたのか不快に感じたのかは分かりませんでした。
「間際に、婿が変な匂いのするものを買ってきたもんだから、“往生”したわ。」など言っているかもしれないな。
句の意は全くちがうようですがその頃今日の句を書き留めたと思います。

姑の手の冷たかりを竹の秋(中村昭子^-^)

老親について。あたしは最近やや世捨人をしているので巷の話はわからないが、世間に繋がっている細君が云うに私たちの親たちが全て“片付いて”いることを羨ましがられることがあるという。心掛けのよい親でも面倒がられるのだから、いわんやであるな。

ちちははの逝きて安心秋澄みぬ(岡本高明)

この句の意は違うが、その違う読み方の方が現在の読み手に訴えることはよくある話ですなあ。
物事は順送りだからあたしたちも早目に手間を煩わさずに消滅しなくてはいけませんなあ。

美しく横たわりたる彩落ち葉(潤)

*本日の散歩写真と駄句

本

「自殺装着 - 養老孟司」文春文庫 涼しい脳味噌
から

を読みました。

余命の宣告を受けて知ってしまうことに耐えられるか?

《 なぜなら、社会の流れは滔々[とうとう]と「情報化」「管理化」に向かってきたからである。わが国でも、とくに戦後は、「知ること」をタブーとしなくなった。「新聞が守る、みんなの知る権利」。それなら「あなたの命は、あと三カ月です」。これが「知る権利」に属するのかどうか。その点が明瞭でないまま、「知る」方が独走したきらいがある。ものごとを「知る」には、知るだけの強さがいる。子供の体力で、三千メートル級の山を登るのは困難である。それなら、体力をつけなくてはいけない。あるいは、成熟しなくてはならないのである。「知る」権利と同時に必要な「体力」を、この社会は、きちんと養成してきたか。おそらく問題はそこにあろう。それが「死の叢書」に対する欲求として現われる。せめて本でも読んで、「体力」をつけなれば。》

初七日の席順までも書き残した余命告知の兄を想いむ(及川康子)

御参考(全文紹介済み)

「キュープラー・ロスの五段階 - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

「死」にたいする恐怖というのは、非常に複雑だといえる。「死」そのものもを恐れるというのもあれば、死の前に訪れる、いわゆる死線の恐怖もある。また、死ぬ前になる病気(それが結局は死につながる)である寝たきりや老人痴呆になるかもしれないという恐怖もある。なにしろ、死を経験した人は多いが、一度死んで生き返った人はいないから厄介である。
さきにも登場したが、アメリカのイリノイ州精神科医、エリザベス・キュープラー・ロスは、瀕死の患者が示す五つの段階を分類している。それによると、
①拒絶
②怒り
③取り引き(通常、神との)
抑うつ
⑤容認
の五段階を経るという。

あたしとしては、冷静でいられるかどうかは別にして、予備知識は集めて置きたいと思いますね。
前記の五段階ですが、あたしの臓器がダメになりそうなとき、死には至りませんでしたが手遅れになったことに対して、確かに一と二は体験しました。
死には至りませんでしたので三以下は未経験ですが、そういうことになるのだろうという“読み”ができていれば心の苦しみは幾分か緩和されるのではないかと考えています。
死の事ばかりを読むつもりはありませんが、死はあたしの読書の大きな柱です。