「「酒」徳 - 出久根達郎」文春文庫 朝茶と一冊 から

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「「酒」徳 - 出久根達郎」文春文庫 朝茶と一冊 から

文章を書いて飯を食う境涯になって、ひそかに恋いこがれた雑誌が五つあった。思う人よりお声がかかるのを、今か今かと待ち望んだのである。思いを寄せる人は高嶺の花であって、一向にこちらを向いてくれない。
そのうち、ようやく、ひとつ、念願を果した。やれ嬉しや、と喜んでいると、良いことは続くもので、もう一人の方よりお座敷がかかった。待てば甘露の日より、喜び勇んで依頼に応じた。
二つ目のわが意中の雑誌は「酒」である。
日本酒のPR誌といったらよいのか(表紙には趣味の雑誌とある)、とにかく酒の礼讚誌には違いないこの雑誌には、思い出がある。
私が古本屋の小僧になってまもなく、客が本を売りにきた。風呂敷をあけると(当時は小荷物の持ち運びは皆これだった。カバンや紙袋は稀である)、「酒」のバックナンバーが出てきた。創刊号から欠号なく、五十冊ほど揃っていた。私が初めてみる雑誌である。
番頭さんはあいにく出払っていて、店には私しかいない。新米の私は、客から本を買った経験がない。いや、たった一度、その時も番頭さんが留守で、やむなく私が値をつけたのだが、照明器具の豪華写真集だとばかり合点して買い入れたそれは、秋葉原家電販売店のカタログで、私は番頭さんに怒られてしまった。田舎者で貧乏育ちの少年には、販売カタログの知識など、あるわけがない。
私は恐る恐る「酒」の内容を検討した。新米の私でも知っている作家が、エッセイを執筆している。一人や二人ではない。一冊まるまる有名な作家の文章で埋っている。
扉絵は火野葦平の河童酒仙の図である。
薄い冊子だが、品があっていかにもしゃれている。内容も面白そうだ。一号から揃っているし、文学資料として使えそうだ。
にわか古本屋店員は以上の判断をし、一冊二十円と計算し、千円でどうか、と客に引き取り値を提示した。客が「ええ-!」と大声を発したので、安すぎたか、と恐縮した。「千円。結構ですよ。それで十分」客が早口で言い、「早くお金を下さい」と手を出した。
金を渡すと、「この風呂敷は君にあげます」とエビス顔で、「酒」を包んできたそれを私に押しつけた。そして逃げるように店を出ていった。カツオ節くさい風呂敷である。
当時、ソバが三十五円、新聞代が三百八十円だったか
三百九十円だったか。千円という金は、ちょいとした額であった。
帰ってきた番頭さんは私の買い物に難色を示した。
「酒の雑誌なんて売れやしない」と言うのである。「酒を飲まない客は見向きもしないだろうし、酒好きの客は本を買うより酒を買うよ」
言われてみれば、なるほどそんな気がしないでもない。
「第一、これは見ばえのしない雑誌だなあ。これは売れそうにないよ」番頭さんは追いうちをかけた。「千円で買ったんじゃ、千五百円で売るしかない。千五百円でなんて、どう考えても高すぎる。仕方ない。もうけなしで、処分しよう」
番頭さんは元値を売価にした。私は意気ごんだ分、しょげてしまった。
番頭さんの見立て通り、「酒」は全く売れなかった。何年も平台の隅に、十文字に束ねられたまま、さらされていた。私は心苦しくてならない。自分の失策を見せしめにされているようである。
何年ほどたったろう。売価の墨文字が古色を帯びたころ、突然、買い手がついたのである。奇特な救世主は、学生さんであった。
無造作に「酒」の束を抱えて、帳場に持ってきた。火野葦平のファンだと言った。葦平が亡くなって三、四年たっていた。いや、もっとたっていたかも知れない。学生さんは葦平の断簡零墨[だんかんれいぼく]に至るまで収集している、と語った。よほどの文学愛好家であった。「この雑誌もバックナンバーを一冊ずつ集めていたんだけど、なかなか揃わなくて。五十冊で千円なんて格安ですよ。三千円だって僕は買います」そんな嬉しがらせを言ってくれた。
私は感激して一割おまけしてあげた。勘定の上では損をした理屈だが、商売としては、大もうけした気分である。いや現にもうけたのだ。この「酒」が縁で、その学生さんは店の良いお得意になってくれたのだから。どんなにたくさんの文学書を買いあげてもらったことか。安い高いと決して言わない。神さまのようにありがたい客であったのだ。
「酒」という雑誌はそのようなわけで、私には忘れがたい。そのころこの雑誌に原稿を書くと、原稿料がわりに、おいしい日本酒が送られる、といわれていた。私はいつの日か、酒をもらえる身分になりたい、とあこがれた。
「酒」の編集長は佐々木久子さんといった。この方が創刊号からずっと、手塩にかけて育ててきた雑誌であった。
『わたしの放浪記』(法蔵館)は、雑誌「酒」にたずさわった経緯を中心の、佐々木さんの自叙伝である。
棟梁の娘として生まれ、広島の原爆に遭遇し、母と共に家の下敷きとなり、九死に一生を得る。「貧乏の苦しみやモノ不足の辛さや、失恋の痛手などは、戦争のむごさにくらべればたいしたことではない。」
過酷な体験をした人だから言える言葉である。その人が偶然のなりゆきとはいえ、「酒」の雑誌を発行する。
酒とはそもそも何であるか。佐々木さんに言わせると、それは「たゆとう酔いの中で人間性の回復をはかる」ものである。「年齢の差を超え、人種の違い、右とか左とかイデオロギーも関係なく、誰もが心を開いてお酒の徳にひたりきる。」
酒の性格は、すなわち雑誌「酒」のそれである。品格があり垢抜けていて分けへだてないのも、酒徳を活字でめざしたものだからなのだ。
佐々木さんは七十歳の酒造りの言葉を紹介する。「神や仏に手を合わせたら良い酒ができるというものではありませんが、この世には、人間の及びもつかない自然の摂理というものがありますね。目に見えない神や仏に合掌し感謝して酒造りをやらないと、微生物がそっぽを向くんです。お酒は蔵の中に生きている何万という微生物の働きで生まれるものですから.....」
酒造りではないが、炎天下、黙々と仕事をしている人に、辛いでしょうと、ねぎらたら、「辛くない仕事というのがありますか?」と笑顔で返された話も書いている。
私ははりきって「酒」誌に執筆したが、残念、原稿料がわらの酒はなく現金だった。大分前にそうなったらしい。

文章を書いて飯を食う境涯になって、ひそかに恋いこがれた雑誌が五つあった。思う人よりお声がかかるのを、今か今かと待ち望んだのである。思いを寄せる人は高嶺の花であって、一向にこちらを向いてくれない。
そのうち、ようやく、ひとつ、念願を果した。やれ嬉しや、と喜んでいると、良いことは続くもので、もう一人の方よりお座敷がかかった。待てば甘露の日より、喜び勇んで依頼に応じた。
二つ目のわが意中の雑誌は「酒」である。
日本酒のPR誌といったらよいのか(表紙には趣味の雑誌とある)、とにかく酒の礼讚誌には違いないこの雑誌には、思い出がある。
私が古本屋の小僧になってまもなく、客が本を売りにきた。風呂敷をあけると(当時は小荷物の持ち運びは皆これだった。カバンや紙袋は稀である)、「酒」のバックナンバーが出てきた。創刊号から欠号なく、五十冊ほど揃っていた。私が初めてみる雑誌である。
番頭さんはあいにく出払っていて、店には私しかいない。新米の私は、客から本を買った経験がない。いや、たった一度、その時も番頭さんが留守で、やむなく私が値をつけたのだが、照明器具の豪華写真集だとばかり合点して買い入れたそれは、秋葉原家電販売店のカタログで、私は番頭さんに怒られてしまった。田舎者で貧乏育ちの少年には、販売カタログの知識など、あるわけがない。
私は恐る恐る「酒」の内容を検討した。新米の私でも知っている作家が、エッセイを執筆している。一人や二人ではない。一冊まるまる有名な作家の文章で埋っている。
扉絵は火野葦平の河童酒仙の図である。
薄い冊子だが、品があっていかにもしゃれている。内容も面白そうだ。一号から揃っているし、文学資料として使えそうだ。
にわか古本屋店員は以上の判断をし、一冊二十円と計算し、千円でどうか、と客に引き取り値を提示した。客が「ええ-!」と大声を発したので、安すぎたか、と恐縮した。「千円。結構ですよ。それで十分」客が早口で言い、「早くお金を下さい」と手を出した。
金を渡すと、「この風呂敷は君にあげます」とエビス顔で、「酒」を包んできたそれを私に押しつけた。そして逃げるように店を出ていった。カツオ節くさい風呂敷である。
当時、ソバが三十五円、新聞代が三百八十円だったか
三百九十円だったか。千円という金は、ちょいとした額であった。
帰ってきた番頭さんは私の買い物に難色を示した。
「酒の雑誌なんて売れやしない」と言うのである。「酒を飲まない客は見向きもしないだろうし、酒好きの客は本を買うより酒を買うよ」
言われてみれば、なるほどそんな気がしないでもない。
「第一、これは見ばえのしない雑誌だなあ。これは売れそうにないよ」番頭さんは追いうちをかけた。「千円で買ったんじゃ、千五百円で売るしかない。千五百円でなんて、どう考えても高すぎる。仕方ない。もうけなしで、処分しよう」
番頭さんは元値を売価にした。私は意気ごんだ分、しょげてしまった。
番頭さんの見立て通り、「酒」は全く売れなかった。何年も平台の隅に、十文字に束ねられたまま、さらされていた。私は心苦しくてならない。自分の失策を見せしめにされているようである。
何年ほどたったろう。売価の墨文字が古色を帯びたころ、突然、買い手がついたのである。奇特な救世主は、学生さんであった。
無造作に「酒」の束を抱えて、帳場に持ってきた。火野葦平のファンだと言った。葦平が亡くなって三、四年たっていた。いや、もっとたっていたかも知れない。学生さんは葦平の断簡零墨[だんかんれいぼく]に至るまで収集している、と語った。よほどの文学愛好家であった。「この雑誌もバックナンバーを一冊ずつ集めていたんだけど、なかなか揃わなくて。五十冊で千円なんて格安ですよ。三千円だって僕は買います」そんな嬉しがらせを言ってくれた。
私は感激して一割おまけしてあげた。勘定の上では損をした理屈だが、商売としては、大もうけした気分である。いや現にもうけたのだ。この「酒」が縁で、その学生さんは店の良いお得意になってくれたのだから。どんなにたくさんの文学書を買いあげてもらったことか。安い高いと決して言わない。神さまのようにありがたい客であったのだ。
「酒」という雑誌はそのようなわけで、私には忘れがたい。そのころこの雑誌に原稿を書くと、原稿料がわりに、おいしい日本酒が送られる、といわれていた。私はいつの日か、酒をもらえる身分になりたい、とあこがれた。
「酒」の編集長は佐々木久子さんといった。この方が創刊号からずっと、手塩にかけて育ててきた雑誌であった。
『わたしの放浪記』(法蔵館)は、雑誌「酒」にたずさわった経緯を中心の、佐々木さんの自叙伝である。
棟梁の娘として生まれ、広島の原爆に遭遇し、母と共に家の下敷きとなり、九死に一生を得る。「貧乏の苦しみやモノ不足の辛さや、失恋の痛手などは、戦争のむごさにくらべればたいしたことではない。」
過酷な体験をした人だから言える言葉である。その人が偶然のなりゆきとはいえ、「酒」の雑誌を発行する。
酒とはそもそも何であるか。佐々木さんに言わせると、それは「たゆとう酔いの中で人間性の回復をはかる」ものである。「年齢の差を超え、人種の違い、右とか左とかイデオロギーも関係なく、誰もが心を開いてお酒の徳にひたりきる。」
酒の性格は、すなわち雑誌「酒」のそれである。品格があり垢抜けていて分けへだてないのも、酒徳を活字でめざしたものだからなのだ。
佐々木さんは七十歳の酒造りの言葉を紹介する。「神や仏に手を合わせたら良い酒ができるというものではありませんが、この世には、人間の及びもつかない自然の摂理というものがありますね。目に見えない神や仏に合掌し感謝して酒造りをやらないと、微生物がそっぽを向くんです。お酒は蔵の中に生きている何万という微生物の働きで生まれるものですから.....」
酒造りではないが、炎天下、黙々と仕事をしている人に、辛いでしょうと、ねぎらたら、「辛くない仕事というのがありますか?」と笑顔で返された話も書いている。
私ははりきって「酒」誌に執筆したが、残念、原稿料がわらの酒はなく現金だった。大分前にそうなったらしい。