「葛飾新宿 - なぎら健壱」ちくま文庫 東京昭和30年下町小僧 から

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葛飾新宿 - なぎら健壱ちくま文庫 東京昭和30年下町小僧 から

葛飾の地、新宿[にいじゅく]へ引っ越したのが、小学校三年の春。
新宿は葛飾の東部、中川、水戸街道(国道6号線)沿いの町で、名前は街道の新しい宿場、というところから付いたとある。土地以外の人間は、新宿という字面だけを見て、副都心の新宿と間違えることがある。葛飾の新宿を知らない、若い勤め人が「新宿支店に、勤務を命ず」と辞令を受け、「しめた、新宿なら遊べるぞ」と喜んだところ、葛飾の新宿と解り、がっかりしたなどという話もある。
僕の友人も子供の頃、隣の江戸川区から自転車で遊びに来て、新宿という地名を眼にし「随分新宿というのは、近いもんだ」と、思ったという。友達はその時「新宿というのは、聞くと見るのでは大違いの繁華街だなあ」と思ったという。
今でこそこの葛飾、トラさんの影響もあってか、堂々と下町などと呼ばれている。しかし先に書いたように、「隅田川一本隔てれば、そこは下町とは呼べない」といわれているのに、この葛飾隅田川どころではない、荒川を越え、中川を越えの大郊外。しかも今一つ、江戸川を越えれば、そこはもう千葉県なのである。
今でこそ下町も広がり、東京の外へ外へと境を移して、この葛飾もどうやら新下町の仲間入り、というところだが、僕が移り住んだ頃の葛飾、つまり25年前の葛飾を見ると、とてもではないが、下町とは到底かけ離れた、在郷という呼び方がぴったり当てはまる処であった。
上野から常磐線(当時はまだ国電省線と呼んでいる人も多かった、僕の父親なども、この常磐線省線と呼んでいた)に乗り、窓の外を見ていると、今より数段明確に、風景が変化していくのが解った。常磐線に揺られながら、「同じ東京でも、随分銀座と違った景色なんだなあ」と、思ったのを憶えている。
中でも鮮明に憶えているのは、荒川の側にあった『お化け煙突』と呼ばれていた、東京電力千住火力発電所の、大きな四本の煙突の姿である。見る方向によって、煙突が重なって、三本、二本と数を変えるところから、お化け煙突と呼ばれていたのだが、その煙突が常磐線の窓から大きく見えた。
当時の新宿はまだ田畑が多く、やたら空き地の目立つ、緑の多い土地であった。東銀座から移り住んだ僕は、嫌に田舎っぽい処に越して来た、というやりきれない気持で、この土地を眺めていた。それまでにこのような、田園風景を眼にしたことといえば、夏休みに行った三重の松阪と、調布の深大寺辺りぐらいでしかなかった。
鉄筋の建物も少なく、そういった建物は消防署、郵便局、保健所、それに当時は近代的な建築物だった、四階建ての都営住宅を何棟か見るだけでしかなかった。そしてその総てを、家の側から一望することが出来た。それを考えても、いかに背の高い建物が少なかったか、解ろうというものである。
小学校(葛飾区立、末広小学校)も木造であり、体育館などはなく、プールも防火用水を手直しして造った、縦15m、横7mの小さな物であった。しかしさすがに校庭は広く、銀座の京橋小学校の猫の額のような、ちっぽけな校庭とはわけが違っていた。しかも京橋小学校の校庭がアスファルトだったのに対して、末広小学校のそれは赤土であり、アスファルトの校庭しか眼にしたことない僕に取っては、逆にそれが、奇異な感じに受け取れた。
葛飾の地、新宿[にいじゅく]へ引っ越したのが、小学校三年の春。
新宿は葛飾の東部、中川、水戸街道(国道6号線)沿いの町で、名前は街道の新しい宿場、というところから付いたとある。土地以外の人間は、新宿という字面だけを見て、副都心の新宿と間違えることがある。葛飾の新宿を知らない、若い勤め人が「新宿支店に、勤務を命ず」と辞令を受け、「しめた、新宿なら遊べるぞ」と喜んだところ、葛飾の新宿と解り、がっかりしたなどという話もある。
僕の友人も子供の頃、隣の江戸川区から自転車で遊びに来て、新宿という地名を眼にし「随分新宿というのは、近いもんだ」と、思ったという。友達はその時「新宿というのは、聞くと見るのでは大違いの繁華街だなあ」と思ったという。
今でこそこの葛飾、トラさんの影響もあってか、堂々と下町などと呼ばれている。しかし先に書いたように、「隅田川一本隔てれば、そこは下町とは呼べない」といわれているのに、この葛飾隅田川どころではない、荒川を越え、中川を越えの大郊外。しかも今一つ、江戸川を越えれば、そこはもう千葉県なのである。
今でこそ下町も広がり、東京の外へ外へと境を移して、この葛飾もどうやら新下町の仲間入り、というところだが、僕が移り住んだ頃の葛飾、つまり25年前の葛飾を見ると、とてもではないが、下町とは到底かけ離れた、在郷という呼び方がぴったり当てはまる処であった。
上野から常磐線(当時はまだ国電省線と呼んでいる人も多かった、僕の父親なども、この常磐線省線と呼んでいた)に乗り、窓の外を見ていると、今より数段明確に、風景が変化していくのが解った。常磐線に揺られながら、「同じ東京でも、随分銀座と違った景色なんだなあ」と、思ったのを憶えている。
中でも鮮明に憶えているのは、荒川の側にあった『お化け煙突』と呼ばれていた、東京電力千住火力発電所の、大きな四本の煙突の姿である。見る方向によって、煙突が重なって、三本、二本と数を変えるところから、お化け煙突と呼ばれていたのだが、その煙突が常磐線の窓から大きく見えた。
当時の新宿はまだ田畑が多く、やたら空き地の目立つ、緑の多い土地であった。東銀座から移り住んだ僕は、嫌に田舎っぽい処に越して来た、というやりきれない気持で、この土地を眺めていた。それまでにこのような、田園風景を眼にしたことといえば、夏休みに行った三重の松阪と、調布の深大寺辺りぐらいでしかなかった。
鉄筋の建物も少なく、そういった建物は消防署、郵便局、保健所、それに当時は近代的な建築物だった、四階建ての都営住宅を何棟か見るだけでしかなかった。そしてその総てを、家の側から一望することが出来た。それを考えても、いかに背の高い建物が少なかったか、解ろうというものである。
小学校(葛飾区立、末広小学校)も木造であり、体育館などはなく、プールも防火用水を手直しして造った、縦15m、横7mの小さな物であった。しかしさすがに校庭は広く、銀座の京橋小学校の猫の額のような、ちっぽけな校庭とはわけが違っていた。しかも京橋小学校の校庭がアスファルトだったのに対して、末広小学校のそれは赤土であり、アスファルトの校庭しか眼にしたことない僕に取っては、逆にそれが、奇異な感じに受け取れた。