「セクシュアリティの変貌 - 上野千鶴子」ちくま学芸文庫 〈私〉探しゲーム 欲望私民社会論 から

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セクシュアリティの変貌 - 上野千鶴子ちくま学芸文庫 〈私〉探しゲーム 欲望私民社会論 から

女たちが、ふしだらになっている。少女たちは、罪の意識なく売春するし、性風俗産業に働くギャルたちのあっけらかんとした態度には、かつての赤線の女の湿っぽさや色街の女の翳りはもうない。妻たちは、お昼のよろめきドラマのスイッチを消して〈不倫〉しに街へ出かける。〈素人女〉と〈玄人女〉の境界がかいまいになり、「きょうび、シロウトさんの方がこれですからねえ」とその筋のクロウトを嘆かせる。売春と非売春との区別もつきにくくなっている。少女が行きずりの男と合意で一夜をすごし、翌朝枕もとに何枚かの一万円札を発見したら、これは「売春」だろうか。ある定義によれば、売春がそうでないかのちがいは、コトの前に金品の受けわたしがあるかどうかだそうだが、それなら、高価な食事や贈り物をもらってベッドインする女の方が、自分の値段を相手と交渉することさえ考えつかない少女たちより、はるかに「売春婦」だろう。
〈素人女〉と〈玄人女〉の区別など、もとより女それ自体の中にはない。男が圧しつけた区別が、有効性を失ってきているにすぎない。女ちちは〈玄人女〉=快楽向きの女と〈素人女〉=生殖向きの女という、男が圧しつけた区別を脱して、セクシュアリティの全体性をかくとくしつつある、のだろうか?
女性たちのセクシュアリティの変貌は、男たちに一種の不気味さを持って受けとめられているらしい。ライフサイクルのなかに妻でもなく母でもない時間をたっぷり持つに至ったふつうの女たちが、そのセクシュアリティを異様に溢れさせるさまを『女性はいまどこにいるのか』(毎日新聞社、一九八三年)の中で、芹沢俊介氏は「娼婦性」と「姦通」という二つのキイワードでとらえている。これまで女たちのセクシュアリティは、男によって抑えられてきたが、なに、その抑えがきかなくなっただけのことである。統制がきかなくなって溢れ出した女たちの性的なありようは、男にはよほど不気味なものに映るらしい。
近代が長い間、性的二重基準sexual double-standard を維持してきたことは明らかである。性経験が多いほど、男には勲章、女にはキズ、だったが、この性的二重基準を成立させるには、男の勲章をふやすためにその相手をしてくれるスティグマつきの女性集団が必要だった。性的二重基準は、女を〈素人〉と〈玄人〉の二種類に分けることを最初から前提していた。〈玄人女〉とは、マジョリティの〈素人女〉たちの貞操を守るための、性の戦争の前線兵士たちであり、スティグマつきで聖別される存在だった。
〈素人女〉たちは貞操を守ったが、それは何も自発的に、というわけではなかった。彼女たちは、それを守らされたにすぎない。一夫一婦制の近代ブルジョア単婚家族の理念を、バカ正直に守ってきたのは女たちだけだった。男たちは、理念を作りあげたとたん、そのウラをかいた。性の領域できまじめな「近代人」だったのは女たちだけであり、男たちの方は、額面どおりの〈近代〉なぞ成立不可能なことをとっくに知っていた。
性の「男女平等」が、この性的二重基準の廃棄に向かうのは当然であろう。この二重基準を「平等」に一元化するには二つの方向がある。一つは女が守る貞操を男にも要求することである。近代法の「夫婦間の貞操義務」はそのように書かれている。もう一つの方向は、男が破った貞操を女も男なみに破る、という意味での「男女平等」である。
きまじめな近代主義者なら、前者の方向を採るだろう。だが、現実の事態はそちらの方向へ動かなかった。男たちの統制のきかなくなった女のセクシュアリティは、男が抜け駆けをしたはずの理念を、男にならって破ることで、
男なみの「平等」化をとげてしまっている。女の子たちは「恋人向きの男と夫向きの男はべつよ」と言い放つが、ここからは「愛人向きの男と夫向きの男はべつよ」という妻の科白まであと一歩にすぎない。妻たちは「家庭を毀さない程度の婚外関係」をとっくに実践している。「女の浮気はすぐに本気になるから、女に浮気はできない」などという男と女のちがいは、結局少しも本質的なちがいなどではなくて、ただ経験の問題にすぎなかったことがじきにわかる。婚外性愛に不慣れだった女たちが、男なみに経験を積むのは、たんに時間の問題だった。
男たちが慨嘆するのは当たらない。女たちが吐くどの科白も、かつて自分の身に覚えのあるものばかりだ。自分たちがしてきたのと同じことを、女たちがし始めたからと言ってこれを責める資格は男たちにはない。
性と愛を分離することも、自分の性を部分化することも、複数の異性を同時に愛することも、男なみに、女はできる。やってみたら、できたというだけだ。女の性が愛とは分離されない全体性を持っている、というのは、ただ女にそうあってほしいと願う男たちの夢にすぎない。
芹沢氏が「娼婦性」と「姦通」という言葉で呼ぶのは、女たちがこの〈性の解放〉=〈性の平等〉の中で、〈素人女〉と〈玄人女〉との間の境界を互いに踏みはずしはじめたという現象である。「未婚の女」=「誰にも所属しない女」は、「誰にでも所属しうる」ことを通じて娼婦のような存在と化し、他方「既婚の女」=「一人に所属した女」は「一人に独占されない」ことを姦通を通じて示す。芹沢氏が「娼婦性」と「姦通」とを「女性はいまどこにいるのか」を理解するキーワードと見なしたのは、けだし卓見と言うべきだろう。ロマンチックラブとそれにもとづいて成立する近代家族のイデオロギーは、成立の当初から男たちによって空洞化され、女たちによってようやくその形骸を支えられていたが、女たちは「近代主義者」になる代わりにそれからオリ始めた。女たちの変貌によって、近代の性イデオロギーは最終的な瓦解を宣告される。