「眼中の人 - 久世光彦」新潮文庫 百年目 から

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「眼中の人 - 久世光彦新潮文庫 百年目 から

《眼中の人》と書いて《がんちゅうのひと》と読む。私の生れる前の、大正や昭和のはじめごろは、日常語とは言えないまでも、会話の中に出てきて、世間に通用していたという。「広辞苑」には《見知った人》としか載っていないが、その意味は、大河内昭爾さんによると、瞼を閉じると自[おの]ずと目の裏に浮かぶくらい懐かしい人、あるいは俗に言う、目のなかに入れても痛くないほど愛[いとお]しい人.....ということらしい。



私は七、八年くらい前まで、この言葉を知らなかった。《眼中にない》といった使い方はよくするが、《眼中の人》は聞いたことがない。それなら私がどこでこのフレーズを耳にしたかというと、ある偏屈な老人たちの会話の中に、しばしばこれが現れるのである。一人は徳岡孝夫という私より五歳年長の学識者で、いま一人は、年齢不詳だが、たぶん二百歳は優に越している山本夏彦という、訳のわからない御仁である。私はこのお二人と何となくご縁があって、年に幾度かおなじテーブルで、お二人のこの世のものとも思えぬ不思議な問答を拝聴する機会があるが、その中に、この《眼中の人》がフッと現れて、フッと消えるのだ。そして山本翁と徳岡老は、怪訝な顔をして聞いている私を横目に見て、ヘッと笑うのである。- 私は面白くない。僻[ひが]んだ上目遣いで窺うと、お前みたいな若造にはわかるまいと目配せし合っているようにさえ見える。と言って、そんな目で見られて、教えを乞うわけにはいかない。悔しい私は、いつの日か必ず《眼中の人》の謎を解いてやると、心に誓った。
だいたい、この二人の老と翁は、博覧強記のくせに、日常会話の口跡[こうせき]が、非常識に不明晰である。特に山本翁のは、魚類の鰓[えら]呼吸ほどの呼吸音に近いから、この人がテレビで喋るときは、はじめから終わりまで字幕スーパーを入れなければならない。一度「昭和恋々」という番組にご出演いただいたとき、私は真剣に日本語吹き替え版まで考えたことがある。という按配[あんばい]だから、《がんちゅうのひと》と私は聞きとったつもりでめ、ほんとうのところは自信がなかった。もう一つの手がかりは、大正のころの話になると、忽然と現れるフレーズらしいということだった。私は、これは書名に違いないと推理した。
 


推理は的中していた。「眼中の人」は、小島政二郎が私の生れた昭和十年に「改造」に載せた小文をもとにして、七年後の十七年に上梓[じょうし]されたもので、若い日の小島政二郎と、芥川龍之介菊池寛の三人の交遊をエッセイ風に書いた小説だった。小島政二郎という人は、昭和十年代から戦後にかけて、「緑の騎士」「新妻鏡」「三百六十五夜」のような大衆小説で売った人だが、もともとは純文学を志していた。けれど芥川が大正文学の旗手としてもてはやされ、菊池寛がいち早く「恩讐の彼方に」や「藤十郎の恋」といった大衆時代小説で売り出したのにも後れをとり、どっち付かずでボヤボヤしていたのが、大正の中ごろから昭和のはじめにかけてのころだった。つまり、小島政二郎は《口惜[くや]しい人》だったのである。
自負もあったが、嫉[ねた]みもあった。若いころ、おなじ志を抱き、おなじスタートラインから歩きはじめたはずなのに、自分だけ遅れてしまった焦りと腹立たしさと哀しみが、芥川が死んで十余年経っても、菊池寛が筆を折って出版事業に専念しはじめても - 昨日のことのように口惜しくてならないのだ。けれど、その口惜しさを上回って、彼は芥川と菊池寛のことが好きで好きでならなかった。懐かしくて仕方なかった。 - 「眼中の人」には、そうした二つの矛盾した思いが、切ないくらい熱く溢れていた。文芸としては如何ほどのものではないにしても、その正直さと、手放しの慕情は、いままで私の知らないものだった。「眼中の人」は、小島政二郎が五十歳を目前に、ポロリと涙を零[こぼ]してみせた《青春の書》だったのである。



私は京都の古書屋でようやくの思いで「眼中の人」を手に入れ、快哉[かいさい]を叫ぶつもりが、妙に神妙な気持ちになってしまった。- 菊池寛が高熱を発して暴れまくり、芥川と小島政二郎が手とり足とり必死に押さえ込もうとするのに、菊池寛七転八倒しながら、「源平盛衰記」を朗誦[ろうしよう]し、ついにはシェイクスピアの「ヴェニスの商人」を原語で諳[そらん]じる話など私は声を上げて笑いながら、いつか涙ぐんでいるのだった。私は山本翁と徳岡老に頭を下げてお礼を言いたかった。あの二人の意地悪がなかったら、私は「眼中の人」に出会うことはなかった。先年、岩波文庫に入って簡単に読めるようになったが、そのころは探すのが大変だった。けれど、こんな探し甲斐のある本も、私にはなかった。
私はいま、ある雑誌に「眼中の人」の三人の作家の話を書いている。小島政二郎は《児島蕭々[しようしよう]》、芥川は《九鬼さん》、菊池寛は《蒲池[かまち]さん》という名前で登場する「蕭々館日録」という題の小説である。話は年号が大正から昭和に変わる大正十五年冬にはじまり、翌昭和二年夏、芥川の唐突な死で終わる。余計なことかもしれないが、「眼中の人」を読んで、小島政二郎の滑稽な切なさを、どうしても書きたくなったのである。そのために、半年がかりで、彼のほとんど全著作を私は読んだ。小説は別として、たとえば戦後に彼が綿々と書きつづけた「食いしん坊」シリーズなどには、驚いたことに、「眼中の人」とおなじように、何かといっとは、芥川と菊池寛が現れるのである。小島政二郎の後半生は、すべて「眼中の人」なのであった。
芥川龍之介は三十五歳で《ぼんやりした不安》にとり憑かれて自死し、菊池寛は成功者として、昭和二十三年春、五十九歳でポックリ幸福に死に、《眼中の人》たちを見送った小島政二郎は、数年前、百歳の長い人生を終えた。
(「日本経済新聞社」平成十二年七月九日朝刊)