「暢気眼鏡『追記』 - 尾崎一雄」岩波文庫 暢気眼鏡・虫のいろいろ から

f:id:nprtheeconomistworld:20191203082009j:plain


「暢気眼鏡『追記』 - 尾崎一雄岩波文庫 暢気眼鏡・虫のいろいろ から

「暢気眼鏡」という題で短篇書くことを思いつき、直ぐ取りかかったが、半分ほどで筆が進まなくなった。暫く放って置き、またかかってみると、その時は更に気乗りしなくなっていた。
テーマがぐらつき出したからだ。 - 女主人公の暢気さが次第に影をひそめ出したのだ。それは日常生活で必然的に「私」という男に影響した。「何故一気に書いてしまわなかったろう」私は悔いたが、今更どうもならなかった。出来るだけ最初の頃の空気を作り、その中でとにもかくにも書きかけのものを仕上げることに努力した。上掲のものがそれだが、結果はやはり不満だった。

「この暢気さが何時まで続くか」そう危ぶんでいた状態が、知らず識らずそれに眼を覆うていた私に、ごまかしのきかぬほど迫って居た。芳枝はもう沈鬱な女になっていた。口には何もいわなかったが、ふと見ると眉の辺りにいやな線を刻んでいることがあった。
ある静かな夜、突然こんな風にいい出したことがある。
「ねえ」
「なんだい」
「人間てね」
「なんだ、早くいえ早く」せっかちな私はそういう話し方が大嫌いだった。
「人間てね。死んでしまえば何も彼もなくなるのね」と早口でいった。
「そうさ、それがどうした」
「苦しいことも、悲しいことも?」
「そうだよ。本来東西なし、いずくんぞ南北あらんや」
「それなに?麻雀のこと?」
「 - そうだ」
「あたし真面目にきいてんのよ。そんなのいや!」
「死んでしまえば何も彼ももない」
「そう。それなら安心だわ。あたし安心したわ」芳枝は実際に安心したような顔をした。私は多少狼狽した。
「しかし、そう簡単には片付かないものでね」
「なぜ」
「まあいいや、君なんか、そんなことあまり考えない方がいいんだよ」
「そうときまれば、考えなくたっていいのよ」
十九まで気楽に育ち、漫然上京すると、いきなり私のような者にかかり合う - 芳枝にとっては何という悪い偶然だったろう。「どんな辛いことだって、面白いと思えば思えるからね。大したことはないよ。何でも来いだ」私自身は決して強がりをいっているのではない。父の死、上の姉の死、私自身の重病、大震災、銀行の破綻。二十六までの四年間に打続いた災禍から、私の感性は鈍っているのだ。私は余り恐いものがなくなった。ただ面倒な事が一倍嫌いになっただけだ。それ故、何事も「ままよ」と直ぐ最悪の場合を予想し「いつでも来い」と身構えもせず寝そべっている。前書いた郷里の家との反目も、前の妻との絶縁も、その気持から事の重さに比し、割に手軽にやってのけた。そういう私だが、ひどい生活に不平もいわず、私だけをたよりにしている芳枝を思うと、流石に気が滅入るのだった。つべこべいう相手には、正面から何でもいってしまえる。「私はこれから人非人になる」母にそういった。が、無力な、柔順な相手には、それが出来ないのだ。
私の精神と肉体とは、ただ一つ、仕事に対する熱、その気持の張りで保[も]っている。私という存在のあらゆる欲望はその一点にに凝結している。「怒った石」のような私というものは、自身でさえ一種のあさましさを感ずるほどだ。だが、私からその欲望を引き抜いてしまったら、あとにはくらげのようなものしか残るまい。目はかすみ腰は曲り、物を喰う気もなくなるだろう。為事[しごと]に対する欲望は、私は非力であるためただ空廻りしているに過ぎないが、とにかくそれは私というものの唯一つの支柱だ。「凡[およ]そ生活あっての芸術だ」そんな事を口にはいいながら、事実は本来を見失った形だ。「これではいかぬ」度々思いもしたが、今では諦める外ない状態に陥っている。形容でも何でもなく、医者に見離された重病人だ。「心機一転」「豁然大悟[かつぜんだいご]」そんな言葉も呑みなれた薬のように何の反応もなくなった。結局私としてはこのままどこまでも押して行くより為方[しかた]ないのだ。間違っているとしても、こういう間違った路に踏み込んだ男が、一体どうなるか、それを見極めることも一つの「何か」だといえよう。
「芳兵衛、お前にはほんとに気の毒だ」
私はある時珍らしく真顔でいった。
「あなた本当にそう思う?」
「思う」
「それならいいのよ。あなたがそう思ってくれれば、あたしそれでいいの」と明けっぱなしの笑顔をした。
「こんな奴をいじめて - あアあ」と私は腹でうなった。「こんなことをして小説書いたとて、それが一体何だ」そう思うと、反射的に「いや、俺はそうでなければいけないんだ」と突き上げるものがある。「暢気眼鏡」などというもの、かけていたのは芳枝でなくて、私自身たったのかも知れない。確かにそう思える。しかもこいつは一生壊れそうでないのは始末が悪い。そこまで来て私はうすら笑いを浮かべた。