「雑踏の中で - 吉行淳之介」ちくま文庫 吉行淳之介ベストエッセイ から

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「雑踏の中で - 吉行淳之介ちくま文庫 吉行淳之介ベストエッセイ から

見知らぬ顔ばかりで雑踏している街の中に身を置くと、僕はやっとひとりきりになれたという解放感で神経が休まってくる。その雑踏は、こみ合っていればいるほど、騒がしければさわがしいほど具合がよい。
その反対にいわゆる人里離れた場所、針の音も大きくひびくというような土地に身を置くと、気分がイライラして落着かなくなってくる。井上友一郎氏はまちの喫茶店のテーブルで平気で原稿を書くことができる、という話だが、僕もそういう性分である。原稿を書くために街に出ることはまだしたことがないが、神経を休めるために街に出るのはしばしばである。
街へ出た以上、なるべくたわいのない場所へ行くに限る。僕は本屋へ入って書棚にずらりと並んでいる書物の背文字をながめていると、必ず便意をもよおしてくる。これは自分でも不思議におもっている。だから本屋はなるべく早く、必要な書物だけ求めて出ることにする。
僕に適当しているのはまずパチンコ屋だ。パチンコ屋の中では人間の言葉というものはほとんど聞こえない。騒々しくひびく機械の音は全く意味をもっていないので、僕にとってはむしろ静寂な地帯ということができる。そして遊戯そのものが大そう孤独な遊戯だ。パチンコ屋で隣の客に話しかける人は、いないといってよい。もっとも時にはひとり言をつぶやいている人もある。「チェッ、またダメだ。これでもう三百エンもスッちまった」などというつぶやきは、愛嬌もあるしペーソスもある。
このパチンコ屋で僕は神経を休める。と同時に、幾分ハラハラしながら球の行方を目で追っているいることが、精神のウォーミング・アップになるらしい。パチンコをしたあとでは、僕は仕事がはかどるのが常である。
酒を飲む時も、飲みはじめには群衆の中でひとりきりという気分を、僕は求める。したがって、大きなビヤホールの木のイスに坐って、ぼんやりジョッキを傾けるのが好きだ。あるいは見知らぬ場末の町で、天井に桜の造花が飾ってあったり、時期はずれのクリスマスの飾りがぶら下ったりしている酒蔵で飲むのが好きだ。
しかし、酔いがまわるにつれて、僕は人なつっこくる。口を開き舌を動かして、たわいのないおしゃべりをしたくなる。それが精神のレクリエーションになる、という気分になってくる。そこで、だれか知合いのいそうな店をのぞきに出かける。首尾よく見付けると、喜んでおしゃべりを開始する。しばらくそれがつづくと、今度はまたひとりになりたくなる。が、僕は弱気なところがあるので「では、さようなら」という気分になれない。ずるずるとハシゴ酒になることがしばしばである。
知合いと別れてひとりになり、雑踏している橋や街路の上に立ち止まって、ビルディングの横腹をチラチラ動いてゆく電光ニュースを読んだりするのも僕は好きだ。黄色い光の帯が、僕の心をなだめる。と同時に、不意に僕の読んでいる文字と同じ文字を、このまわりの人たちも読んでいるのだろうか、と疑わしくおもえる瞬間も襲ってくる。そういう時には、電光文字はふと見なれない奇怪な形に見えたりする。
とにかく、僕は雑踏を愛し、都会を愛している。当分、いや死ぬまで花鳥風月の心境にはなりそうにない。