「2、女体に対する男の憧れ - 北原武夫」旺文社文庫 告白的男性論

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「2、女体に対する男の憧れ - 北原武夫」旺文社文庫 告白的男性論

男性が女性の肉体に対してもっている、憧憬的な欲望の焦点は、いま書いたとおりですが、その中で、男性にとっては純粋に憧れとなっているものがあります。それはほかでもない、あのなめらかな胸にむっちりと実っている、「いのちの実」ともいうべき、あの薄白いふくよかな二つの隆起です。
この豊かなふくらみに対して、男性という男性がもっている熾烈[しれつ]な関心は、恐らく女性にはお分りにならないだろうと思う。それはむろん、女性は生れながら持っているので、ご当人には格別不思議でないし、男性には、これはまたどんなに欲しがっても、肝心の造物主が与えてはくれなかったので、そのどうにもならないズレから起こる当然の心理だと、言ってしまえばそれまでだが、しかし決してそれだけではないのです。あのふくよかな二つの隆起のもっている豊かさ、柔らかさ、暖かさ、その線の美しさ等々が、なよやかな女性の、まさになよやかである所以[ゆえん]を象徴しているように、僕ら男性には思われるからです。 
女性のその部分に寄せる男性の関心は、従って正確にいうと、美的関心といったほうが正しいので、自惚[うぬぼ]れの強い女性や意地悪な女性が、しばしばそう思いがちなように、色情的な関心が主なのではない。むろんそれは、画家がカンバスの前で、モデルの肉体を見つめる時のように、どこからどこまで純粋な美的関心とは、言い切れない。性的好奇心や性的想像力が、どうしてもそこには混じりがちなのは、僕だって否定はしません。しかし、ここでは正直にものを言っている僕の言葉を、もし信じて下さるのなら、そういう場合の男性の性的なものは、グレープ・ジュースの中に天然のアルコール分が含まれて程度にしか、その美的関心の中には含まれていないものです。
僕が今「憧れの対象」だと言ったのはその意味なので、どの人の胸に触ってみたいのは山々ですが、そういう場合でさえも、色情よりはむしろ憧れのほうが強いものです。(そうでない男性もかなりいるようですが、それはほんとの意味での男性には入らないので、あんなのは相手にしないでください。)志賀直哉の「暗夜行路」という小説の中に、主人公の若い男が、ある夜、灯の光の下で、若い娼婦の乳房を両手で触り、それを手の中で重そうに揺すってみて、「豊年だ、豊年だ」と思わず口に出して言うほほえましい場面がありますが、色情というよりは、女そのものの象徴的な美しさにうっとりとするあの気持、僕ら男性のその「憧れ」の気持を、実によく物語っています。
僕などは、その意味での関心が人一倍強いせいか、近ごろでは、どんな下らない映画でも決して退屈しないという、一種の妙案を考え出して、もっぱらそれを実行しています。僕が主に見るのは外国映画ですが、フランス映画でもアメリカ映画でも、どうにも下らない筋を、どうにも下らない役者たちが演じていて、どうにも退屈でならない時、筋などを追うのはやめて、そこに出て来るあちらの女優さんたちの、ムッと盛り上がった胸のあたりだけを、生きている美術品を眺めるようにして眺めているのです。
また奇妙なことに、下らない映画ほど、演技力がちっともないかわり、肉体的条件だけはズバ抜けた女優さんが出て来るもので、もうこれは映画を見るんじゃなくて、アチラ製のバストを鑑賞するんだと決めてしまうと、そういう時でもちっとも退屈しません。ものには見方や味わい方というものがあるので、下らない映画にぶつかって、入場料を損したと思う男性諸君には、この独特の美的鑑賞法を教えたいくらいのものですが、大切なのは、この場合でも、色情的なものよりは、綺麗なものを目で味わいたいという美的関心と美的満足のほうが、少なくとも、僕などの場合は強いということです。気取って言っているわけではありません。事実そうなのです。そして恐らく、他の多くの男性諸君の場合たって、そうに違いないと僕は思っています。
 
多くの女性が誤解しているのは、あるいは誤解しがちなのは、実にそこのところで、あらわな肌を見せると、男性はすぐに色情的に興奮するものだと思いこんでいる。とくに大腿だの、女性の肉体の中でも最も女性的な胸の部分だの見せると、男性という男性はたちまち劣情にとり憑かれるものだと、人によっては、断乎として信じている。性的な感受性というものには、他の感覚にも増して一種の訓練が要るので、そういう粗雑な感覚の持ち主もいるでしょうが、女性が心配しているほど、男性の内部では、そんなにすばやく美的関心が色情には変化しないものです。
それはたいていの場合、女性側の不必要なポオズやしぐさによって、僕らの想像力が刺激されるからで、見たいと思わないのにわざと隠したり、見られると思って隠そうとしたりして、しいて平地に波瀾を起こすような具合に、こっちの想像力を刺激されては、いくら紳士の僕らでもたまりません。男性の大半は、実はもっと純粋な気持で、女体の美しさにみんな憧れをもっているていうこと、その点では男性というのは、いつも美しい女性の肉体の崇拝者でありたいと思っている素朴なファンであり、それを下劣な好色漢に仕立て上げるのは、女性の中にある、男性にたいするある種の偏見だということを、僕はむしろここで考えていただきたいと思います。
ところが、これと同じような滑稽な誤解が、男性側にもあるのです。それはほかでもない、女性の肉体が、男性にとってそれほど関心が深いので、男性のそれも、女性にとっては、同じように関心が深いに違いないと、心からそう思いこんでいる男性が多いということです。
これはごく若い男性か、粗野な感受性しか持ち合わさない素朴な男性か、要するに「頭の弱い」男性に共通した現象ですが、困ったことに、彼らは本気でそう思いこんでいるのです。僕の知っている若い新劇俳優のなかに、やはりそういう青年がいて、彼はボディー・ビルで鍛えた筋肉のお化けみたいな肉体がひどくご自慢で、とくにそれを若い女性に見せたいらしく、何かというとワイシャツを脱いで裸になりたがるのに、仲間の若い女優さんたちは、みんな閉口して恐れをなしていました。
僕もすでに初対面の時、「先生、ちょっとトイレに来てください」と、わざわざ妙なところに引っ張ってゆかれて、それを見せられたのですが、一緒にバアに飲みに行ったときでも、少し時間が経つと、「ね、君、僕のハダカ見たくない?」と、誰彼の区別なしに、女の子をつかまえてはそう催促し、すぐさま上着を脱ぎかかるのに、大いに手古ずったものです。僕はそれで、ある時、彼をつかまえて、「女の人はね、男の裸の身体なんぞ、君が考えてるほど崇拝なんかしていないんだからね、そうムヤミに見せたがるのはやめろよ」と、真剣に忠告したのですが、信念に燃えている彼には、どうしてもそれがわからなかったようです。女性は、あなた方自身がすでにご存じのように、男の裸なんか決して見たくはない。それどころか、そういうものは、とくに若い女性には何よりも不潔で汚ならしく見える。彼女たちの潔癖さからくる美的関心が、ナマのもの、ムキ出しのもの、露骨なものを、彼女たちに、何よりも厭わしく感じさせるからです。
たとえば宝塚歌劇の男役のように、現実の男性から、そういうナマのものムキ出しのものを取り去った、いわば抽象的な男性像が、とくにハイティーンの女性たちの憧れの的になっているのもそのためで、それには、ただ感傷的などとはいえない十分な理由があるのですが、どうもそこのところが、一部のアンちゃん的男性には、まだ十分のみこめていないらしいのが残念です。