2/2「たき火 - 国木田独歩」角川文庫 武蔵野 から

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2/2「たき火 - 国木田独歩」角川文庫 武蔵野 から

この寒き日暮れにいつまでか浜に遊ぶぞと呼ぶ声、砂山のかなたより聞こえぬ。童の心は伊豆の火のほうにのみ馳[は]せて、この声を聞くものなかりき、帰らずや、帰らずやと二声三声、引き続きて聞こえけるに、一人の幼なき児、聞きつけて、母呼びたまえり、もはやうち捨て帰らんといい、たちまちかなたに走りゆけば、残りの童らまた、さなり、さなりと叫びつ、競うて砂山に駈けのぼりぬ。
火の燃えつかざるを口惜[くやし]く思い、かの年かさなる童のみは、後振りかえりつつ駈けゆきけるが、砂山の頂に立ちて、まさにかなたに走り下らんとする時、今ひとたび振り向きぬ。ちらと眼[まなこ]を射たるは火なり。こはいかに、われらの火燃えつきぬと叫べば、童ら驚き怪しみ、たち返りて砂山の頂に集まり、一列に並びてこなたを見下ろしぬ。
げに今まで燃えつかざりし拾い木[ぎ]の、たちまち風に誘われて火を起こし、濃き煙うずまき上り、紅の炎の舌見えつ隠れつす。竹の節の裂[わ]るる音聞こえ火の子舞い立ちぬ。火はまさしく燃えつきたり。されど童らはもはやこの火に還[かえ]ることをせず、ただ喜ばしげに手を拍ち、高く歓声を放ちて、いっせいに砂山の麓なる家路のほうへ駈[は]せ下りけり。
今は海暮れ浜も暮れぬ。冬の淋しき夜となりぬ。この淋しき逗子の浜に、主なき火はさびしく燃えつ。
たちまち見る、水ぎわをたどりて、火の方[かた]へと近づきくる黒き影あり。こは年老いたる旅人なり。彼は今しも御最後川を渡りて浜に出[い]で、浜づたいに小坪街道へと志[こころざ]しぬるなり。火を目がけて小走りに歩むその足音重し。
嗄[しわが]れ声にて、よき火やとかかすかに叫びつ、杖なげ捨てていそがしく背の小包みを下ろし、両の手をまず炎の上にかざしぬ。その手は震い、その膝はわななきたり。げに寒き夜かな、いう歯の根も合わぬがごとし。炎は赤くその顔を照らしぬ。皺[しわ]の深さよ。眼[まなこ]いたく凹[くぼ]み、その光は濁りて鈍し。
頭髪も髭も胡麻白にて塵にまみれ、鼻の先のみ赤く、頬は土色せり。哀れいずくの誰ぞや、指してゆくさきはいずくぞ、行衛[ゆくえ]定めぬ旅なるかも。
げに寒き夜かな。独りごちし時、総身を心ありげに震いぬ。かくて温まりし掌[たなごころ]もて心地よげに顔を摩[す]りたり。いたく古びてところどころ古綿の現われし衣の、火に近き裾のあたりより湯気を放つは、朝の雨にうるお[難漢字]いて、なお乾[ほ]すことだに得ざりしなるべし。
あな心地よき火や。いいつつ投げやりし杖を拾いて、これを力に片足を揚げ火の上にかざしぬ。脚絆[きやはん]も足袋も紺の色あせ、のみならず血色[ちいろ]なき小指現われぬ。一声[いつせい]高く竹の裂[わ]るる音して、勢いよく燃え上がりし炎は足を焦がさんとす、されど翁は足を引かざりき。
げに心地よき火や、たが燃やしつる火ぞ、かたじけなし。いいさして足を替えつ。十とせの昔、楽しき炉[いろり]見捨てぬよりこのかた、いまだこのようなるうれしき火に遇わざりき。いいつつ火の奥を見つむる目[ま]なざしは遠きものを眺むるがごとし。火の奥には過ぎし昔の炉の火、昔のままに描かれやしつらん。鮮やかに現われるるものは児にや孫にや。
昔の火は楽しく、今の火は悲し、あらず、あらず、昔は昔、今は今、心地よきこの火や。いう声は震いぬ。荒ら荒らしく杖を投げやりつ。火を背になし、沖の方を前にして立ち体[たい]をそらせ、両の拳[こぶし]もて腰をたたきたり。仰ぎ見る大ぞら、晴れに晴れて、黒澄み、星河霜[せいかしも]をつつみて、遠く伊豆の岬角[こうかく]に垂れたり。
身うち煖[あたた]かくなりまさりゆき、ひじたる衣の裾も袖も乾きぬ。ああこの火、誰[た]が燃やしつる火ぞ、誰[た]がためにとて、誰[たれ]が燃やしつるぞ。今や翁の心は感謝の情にみたされつ、老の眼[まなこ]は涙ぐみたり。風なく波なく、さしくる潮[うしお]の、しみじみと砂を浸[ひた]す音を翁は眼[まなこ]閉じて聴きぬ。さすらう旅の憂[う]きもこの刹那[せつな]にや忘れはてけん、翁の心、今ひとたび童の昔にかえりぬ。
あわれこの火、ようように消えなんとす。竹も燃えつき、板も燃えつきぬ。かの太き丸太のみはなおよく燃えたり。されど翁はもはやこれを惜[お]しとも思わざりき。ただ立ち去りぎわに名残り惜しくてや、両手もて輪をつくり、抱[いだ]くように胸のあたりまで火の上にかざしつ、眼しばだたきてありしが、いざとばかり腰うちのばし、二足三足ゆかんとして立ちかえれり、燃えのこりたる木の端々[はしばし]を掻き集めて火に加えつ、勢いよく燃え上がるを見て心地よげにうち笑みぬ。
翁のゆきし後、火は紅[くれない]の光を放ちて、寂寞[じやくばく]たる夜の闇のうちにおぼつかなく燃えたり。夜更け、潮みち、童らが焼[や]きし火も旅の翁の足跡も永久[とこしえ]の波に消されぬ。
(明治三十年十一月作)